小骨の欠片

まめかんの日常。

セリフで読む『進撃の巨人』(10巻までのネタバレあり)

 いやー、面白い!結局、10巻まとめて大人買いしちゃったよ……。
 

 どんな話?と思った方は、アニメ『進撃の巨人』第一話をどうぞ。
 
 素人でも分かる作画のクオリティーに唖然としました。ここまでこだわっていると、制作の人たちが7月期が終わるまで生きているか不安です。 
 今回は印象的な台詞を引用しながら、『進撃の巨人』で描かれていることをざっとまとめて見ようと思います。
 この先、単行本最新刊までのネタバレ前提で書いてますので、未読の方はご注意ください*1
 大まかなあらすじや、登場人物については、こちらの『進撃の巨人』公式サイトをご参照ください。




■弱肉強食の世界で生きる主人公

仕方ないでしょ。世界は残酷なんだから。
(8巻・ミカサ)

できなければ・・・・・・死ぬだけ。
でも・・・勝てば生きる・・・。
戦わなければ勝てない・・・。
(2巻・ミカサ)

人は戦うことをやめた時初めて敗北する。
戦い続ける限りは、まだ負けてない。
(9巻・ミケ)

 メインキャラクターのミカサが言うように、『進撃の巨人』世界は残酷です。力を持たないものは食われて終わり。徹底的に弱肉強食の世界。だから、主人公は力を求めます。主人公の名前はエレン・イェーガー。15歳の少年です。ちなみに、イェーガーとはドイツ語の場合“Jäger”と書き、「狩人」という意味だそうです。

お前の母さんを助けられなかったのは、お前に力がなかったからだ・・・
オレが・・・!
巨人に立ち向かわなかったのは、オレに勇気がなかったからだ・・・
(1巻・ハンネス)

もう・・・あの家には・・・二度と帰れない。
どうして最後までロクでもない口ゲンカしかできなかったんだ!!
もう・・・母さんはいない!!どこにもいない・・・。
どうしてこんな目に・・・。
人間が弱いから?
弱いヤツは泣き喚くしかないのか!?

駆逐してやる!!
この世から、一匹・・・残らず!!
(1巻・エレン)

 これが動機ですね。エレンは母親の死をきっかけに、巨人を強く憎み、力を求めるようになりました。少年マンガとしてはむちゃくちゃ王道の、情熱あふれる努力型主人公。ビジュアルもほんと王道。
 その一方で、正義感の強さゆえにミカサ(エレンを愛してやまない幼馴染の女の子)の両親を殺し、拉致した強盗をわずか9歳で殺してしまうという突き抜けっぷり……。いや、あの、9歳で大人を躊躇なく殺しちゃう主人公(とミカサ)ってすごくない……?
 リミッター限界までは爽やかでひたむきな男の子なのに、一度臨界点を超えると一気に目が据わる感じ。精神力と正義感が強くてどこかおかしい、良い子ちゃんで終わらない感じが好きです。


 そんなエレンは壁の外に出て、壁の外の世界を自由に探検するという夢を持っています。

オレ達は生まれた時から自由だ。
それを拒む者がどれだけ強くても関係無い。
炎の水でも氷の大地でも何でもいい。
それを見た者はこの世界で一番の自由を手に入れた者だ。
戦え!!
そのためなら命なんか惜しくない。
どれだけ世界が恐ろしくても関係無い。
どれだけ世界が残酷でも関係無い。
戦え!!戦え!!
(4巻・エレン)

 また、後にエレンが所属することになる、調査兵団も『自由の翼』の紋章を背負って戦っています。
 エレンが焦がれる『自由』は一巻から繰り返し出てきているテーマで、エレンが巨人を駆逐した先に思い描く未来図の軸となっています。
 とはいえ、人類と巨人の構図をこれを地球に置き換えて考えると、エレンの言う『自由』どころか、巨人の駆逐の正当性もなかなか扱いが難しいテーマです。もちろん、そんな悠長なことを言っていられる状況ではないですが、もう少し進んだら『巨人を駆逐すること』と『壁の外に出ること』この2つが人間の傲慢云々とか、物語内で論点になってもおかしくないかなーという気もします。



■大きな見せ場もなく死んでいく登場人物たち

皆・・・・・・。死んだ甲斐があったな・・・
人類が今日、初めて・・・
勝ったよ・・・
(4巻・リコ)

 最初に一巻を読んだとき、本当にあっけなく人が死んでいくことにショックを受けました。無常感、というのが一番近いかもしれません。
 チャーミングな登場人物が生き生きと動いたと思ったら、次のシーンではささいなきっかけで、あっさりと死んでいきます。多くの物語では、登場人物たちの死は重く扱われ、華々しく死んでいきます。ですが、このマンガでは「運が悪かった」としか言いようのない軽さで、彼らは命を落とします。しかも、巨人に生きながら食われる、という想像するだけで怖く、痛い死に方です。

もう一度言う・・・。
調査兵団に入るためにこの場に残る者は近々殆ど死ぬだろう。
自分に聞いてみてくれ。
人類のために心臓を捧げることができるのかを。
(5巻・エルヴィン)

 たとえ人類のために命を賭して戦う勇気、前に踏み出す覚悟を持ったとしても、その結果、意義のある最期を迎えるわけではないんですよね。考えてみたら当たり前ですけど。何かを残して華々しく散っていく人の方が珍しい。でも、それがすごく切なくて、心がずっしり重たくなりました。

 そうやって巻を進めていくうちに、このマンガは『戦記』なのだ、とようやく理解しました。戦いに勝利し『歴史』を作り・受け継ぐ≒未来を作るということと、その『歴史』は誰がどうやって作っていくのか、という歴史の作り手たちの姿を生々しく描きたいのだと思ったのです。

 つまり、このマンガで重要となるのは、実は主人公でも、人類最強の兵長でもないのだと思います。英雄の裏で、英雄を英雄たらしめる、その他大勢。普通の人々が巨人という圧倒的な脅威に向かっていく葛藤と勇気。命の軽さと重み。いつか巨人に食われる怖さと戦いながら、未来の礎となるべく、何度でも彼らが立ち上がっていけるかどうか。それが勝利の鍵なのだろうなと。

 この「その他大勢」を象徴している登場人物が、ジャン・キルシュタイン。つまり、ジャンの行く末が『進撃の巨人』の行き先と言っても過言ではありません。心も身体も、普通の人間代表のジャンが、残酷な戦いの中でさまざまなことを思い、考え、いくつかの選択をしていきます。ジャンの行動や心の動きを追いながら読むことで、しみじみと『進撃の巨人』のおもしろさが分かってきます。
 私が『進撃の巨人』を好きだ、と感じたきっかけもジャンでした。ジャンを通じて、作者の方が普通でない状況の中で、普通の人が戦う覚悟を大切にされていると分かったからです。

 そのジャンが、友人マルコを悼むシーンがあります。マルコは誰も見ていないところで死んでいった、とても切ない人物です。

皆後悔してる。こんな地獄だと知ってりゃ、兵士なんか選ばなかった。
精魂尽き果てた今、頭にあることはそればっかりだ。
なぁ・・・マルコ。
もう・・・どれがお前の骨だか、わかんなくなったよ・・・
(4巻・ジャン)

オレたちと人類の命がこれに懸かっている。
このために・・・オレたちはマルコのようにエレンが知らないうちに死ぬんだろうな。
あのなミカサ。誰しもお前みたいになぁ、エレンのために無償で死ねるわけじゃないんだぜ?
知っておくべきだ。エレンもオレたちも。オレたちが何のために命を使うのかをな。
じゃねぇといざという時に迷っちまうよ。オレ達はエレンに見返りを求めている。
きっちり値踏みさせてくれよ。自分の命に見合うのかどうかをな・・・。
だから・・・エレン、お前・・・、本当に・・・
頼むぞ?
(5巻・ジャン)

 この作品では「どう生きるか」と同じくらい「どう死ぬか」「何を残せるか」が繰り返し繰り返し問われます。十把一絡げに死んでいった人々の名前も、功績も、後世に残ることはありません。
 だからこそ、自分の命をできるだけ有意義に使おうとするし、生きている者は何も残せなかった人たちの死を意味あるものにするため、何回も立ち上がり、武器を取るのだと思います。そうして、彼らの死、彼らが残した一つ一つが、人類の背中を押し、新しい一歩に進んでいきます。

お前は十分に活躍した。そして・・・・・・これからもだ。
お前の残した意志が俺に“力”を与える。
約束しよう。
俺は必ず!!
巨人を絶滅させる!!
(3巻・リヴァイ)

 こうやって、あまたの人々の死が、生きている者の精神に宿っていき、『歴史』が作られていくのでしょう。こういう脈々と受け継がれていく精神、という構図は胸熱ですし、少年マンガの熱量を持ったまま『戦記』を展開されるとすごいグッときます。


■正しい選択の難しさと責任

エレン。お前は間違ってない。やりたきゃやれ。
俺にはわかる。コイツは本当の化け物だ。「巨人の力」とは無関係にな。
どんなに力で押さえようとも、どんなに檻に閉じ込めようとも、コイツの意識を服従させることは誰にもできない。
お前と俺たちの判断の相違は経験則に基づくものだ。
だがな・・・、そんなものはアテにしなくていい。
選べ・・・。
自分を信じるか、俺やコイツら調査兵団組織を信じるかだ。

俺にはわからない。ずっとそうだ・・・。
自分の力を信じても、信頼に足る仲間の選択を信じても、結果は誰にもわからなかった・・・。
だから・・・まぁせいぜい、悔いが残らない方を自分で選べ。
(6巻・リヴァイ)

巨人と対峙すればいつだって情報不足。
いくら考えたって何一つ分からないって状況が多すぎる。
ならば務めるべきは迅速な行動と、最悪を想定した非情な決断。
かといって血も涙も失ったわけでもない。
お前に刃を向けることに何も感じないってわけにはいかんだろう。
だがな・・・、後悔はない。
(6巻・リヴァイ)

確かに団長は非情で悪い人かもしれない・・・。
けど僕は・・・それでいいと思う。
あらゆる展開を想定した結果仲間の命が危うくなっても、選ばなきゃいけない。
100人の仲間の命と、壁の中の人類の命を。
団長は選んだ。100人の仲間の命を切り捨てることを選んだ。

大して長くも生きてないけど確信してることがあるんだ・・・。
何かを変えることのできる人間がいるとすれば、その人はきっと、大事なものを捨てることができる人だ。
化け物をも凌ぐ必要に迫られたのなら、人間性をも捨て去ることができる人のことだ。
何も捨てることができない人には、何も変えることはできないだろう。
(7巻・アルミン)

 この世界では、「選べないよ!」と言いたくなるようなことを常に突きつけられ、選ばなければなりません。選択し、責任を取ること。それ自体は普遍的なテーマですが、一人の決断であっさりと周囲の人間が死んでいくこの世界観でぶつけられるとほんと重たい。

 中でも、調査兵団の団長として、大勢を選び非常な決断を下すエルヴィンと、部下の信頼を一身に担うリヴァイは壮絶です。この2人が自分の判断の結果を淡々と受け入れ、事実は事実、と苦い気持ちと共に飲み込んでいく場面の重量感。私自身、選ぶ(そして切り捨てる)ってことがすごい苦手で怖いタイプなので、この2人が出てくるたびに毎回、身につまされる思いです。もちろん、2人が背負ってる重みは尋常じゃないけども。いやー、もう、普通のメンタルだったら精神おかしくなってるよ。むしろ、すでにおかしいのかもしれないですね。
 もちろん、主人公も、同期の仲間たちも、沢山の危うい選択を迫られていくし、それが吉と出ることも、凶と出ることもあります。更に言えば、これから先は人類だけでなく、巨人サイドの選択と葛藤も大きな見どころになるのかなーと思っています。
 いずれにせよ、がむしゃらに“戦う”だけでなく“選ぶ”難しさと勇気を伝えている作品だと思います。


■多様性と見方。世界を知り、広げる

義務果たさん者がその恩恵を受けることができんのは当然やからな・・・。
私の考えはこうだ。
伝統を捨ててでも一族と共に未来を生きたいと・・・思うとる。
世界が繋がっていることを受け入れなければならん。
サシャ・・・お前には少し臆病なところがあるな。
この森を出て他者と向き合うことは・・・、お前にとってそんなに難しいことなんか?
(9巻・サシャの父)

俺達はガキで・・・何一つ知らなかったんだよ。
こんな奴らがいるなんて知らずにいれば・・・。
俺は・・・、こんな半端なクソ野郎にならずにすんだのに・・・・・・。
もう俺には・・・何が正しいことなのかわからん・・・。
ただ・・・俺がすべきことは、自分のした行いや選択した結果に対し、戦士として最後まで責任を果たすことだ。
(10巻・ライナー)

 
 最新刊に近づくに連れて、考え方と見方の多様性、世界を広げることの大切さに関する言及も増えています。さらに、サシャの父が言う“世界が繋がっていることを受け入れる”というのも引っかかります。この先、人類目線から語られてきた物語が、巨人サイドの視点で語られるようになるのもほぼ確実じゃないでしょうか。また、巨人サイドも何かしらの大義を持って、人類を殺していることを考えると、より一層、判断の難しい善悪が入り混じる中での戦いに発展する感じですよね。
 また、エレンの夢に関連して、世界を知る、広げる、探求する、というワードが一巻から繰り返し出ているのも気になるところです。エレンの父親はもちろん、下手したら異端の本を持っていたアルミン家にも関連する伏線になっていてもおかしくないですね。ともあれ、ラストに向かっていく中で“世界を知り、広げる”という考えはより重要になっていくんじゃないでしょうか。

良い人か・・・。
それは・・・、その言い方は、僕はあまり好きじゃないんだ。
だってそれって・・・、自分にとって都合の良い人のことをそう呼んでいるだけのような気がするから。
すべての人にとって都合の良い人なんていないと思う。
誰かの役に立っても、他の誰かにとっては悪い人になっているかもしれないし・・・。
だから・・・、アニがこの話に乗ってくれなかったら・・・・・・、
アニは僕にとって悪い人になるね・・・
(8巻・アルミン)

 世界を知ることで、こういった線引きが繰り返し必要とされ、そこでも新たな葛藤が生まれそうです。

 また、調査兵団も多様性をよしとする集団です。彼らは平和な間も『自由の翼』を背負い、信念を持って命を賭し、人類の変革をもたらそうとしてきました。

憎しみを糧にして攻勢に出る試みはもう何十年も試された。
私は既存の見方と違う視点から巨人を見てみたいんだ。
空回りに終わるかもしれないけど・・・ね。
でも・・・私はやる。
(5巻・ハンジ)

 ハンジさんを見ていると、ラストは過去の解明、文明の発展、言葉による交渉といった人間ならではの方法で巨人との戦いが終焉に向かう気もして、わくわくします。


■人と巨人は結局同じ。入れ子細工のようなメタ構造
 人と巨人が戦っている世界観はすごく特殊に見えますが、巨人によって引き起こされる問題は、現代に置き換えても理解できてしまう普遍性を持ちます。総力戦を建てまえにした食料難対策のための口減らしとか、中央に対する不信が募っていく感じとか、この世界でも、きっとそうなるよなーという問題が起こっています。

人類が滅ぶのなら巨人に食い尽くされるのが原因ではない!!
人間同士の殺し合いで滅ぶ!!
我々はこれより奥の壁で死んではならん!!
どうかここで──
ここで死んでくれ!!
(3巻・ピクシス)

 中でも、このセリフは今後のストーリーの根幹になっていくように感じました。リアルタイムか、過去の話か分かりませんが、巨人サイドでも似たような事態が起こったんじゃないかと。というか、このストーリーで行われているあれこれが、過去に巨人たちが経験したあれこれと実は全て重なっている、という設定もありえます。

 9巻と10巻では、人間の上位に位置していた巨人たちも実は捕食される存在でもある……と生態系の新しいヒエラルキー構造の存在が明らかにされています。メタにメタを重ねる入れ子の構造ですね。また、人間と同じく、巨人サイドも一枚岩とは到底言えないことも判明しつつあります。

 天災しかり、戦争しかり、日常を破壊する『巨人』の存在はいろんなもののメタファーとして読めると思うんですけど、結局は人間(巨人)の弱さが引き起こした人災の話が要になってくると思います。
 人と巨人は、二足歩行している生物という点で一見近いようで実はかけ離れていて、それでいてすごく近い、という微妙に影響を与え合うこの関係なんですよねー。なので、この両者にどんなラストが待っているのか。すごく楽しみです。


■まとめ
 人を食う巨人の絵を見た時の本能的な嫌悪と恐怖。このグロさと気持ち悪さが本当に無理で、一巻を読みきらないままずっと放置していました。逆に言えばそれくらい鮮烈です。
 まあ、私も一度脱落したわけですし、設定と絵面はえぐいんで、万人向けとはいえないです。特に女性はきついかも。ただ、興味があるなら5巻までぜひ頑張ってほしいです。調査兵団が主軸になるあたりから、若干希望が見えてくるかと。

 とはいえ、少年マンガの魅力はきっちり押さえているし、キャラクターも魅力的(ただし退場が早い)だし、ストーリー自体も王道。主に絵と、登場人物の死亡率がネックなだけですね。
 あとは、さくさくと進む展開の早さ、潔さが高評価。おおむね、本筋と伏線と見せ場だけで構成されてるので、どの巻も読み応えがあるんですよね。
 内容的に、とにかく突進していくバトルものかと思いきや、伏線もちゃんとあるので、回収の段階で「えええええーー!」っていう謎解きっぽい驚きもあります。

 あとは、やっぱりアニメですかね。マンガよりも直接描写を避けているので、生々しいのが苦手な人はアニメ版をおすすめ。マンガだと時系列がとっちらかることがあるんですけど、アニメだと基本的に時系列に整理した状態で進むので、ストーリーもすんなり入ってきやすいですね。 

 戦い方と戦術にはツッコミどころもありますが(立体機動作れるなら、別のもの作れそうとか、地下を強化したら?とか)、まあそのあたりの細かいところは気にせずに。あくまでも、絶望の中で生まれる人間ドラマを楽しめばいいと思います。あと、シリアスな中にぬるっと挟まれるギャグパートがシュールで大好き。
 そんなわけで『進撃の巨人』楽しいのでオススメですー!

 あと『進撃の巨人』がハマる方は、クレイモアもお好きだと思います。こっちは、美女たちが血だらけになりながら戦うお話です。
[asin:4088732200:detail]
 


(ここから先は自分用メモの直球ネタバレ)

*1:セリフを読みやすくするために、句読点を入れ、三点リーダーを一部削っています。そのあたりはご了承ください。

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本屋さんでリアル脱出ゲーム『本屋迷宮』&神保町グルメ

リアル脱出ゲームはSCRAPが主催の謎解きイベント。初めて参加したのは、2010年のよみうりランド。最近は名探偵コナンでんぱ組.incとのコラボも話題になり、TV進出もはたすなど、積極的に事業展開されていて面白い。
詳しくは公式ホームページを参照してほしいんだけども。
SCRAP公式サイト

今回は書泉グランデでリアル脱出ゲームができるというわけで、友達に連れられて神保町へ。
参加方法は、入ってすぐ置いてあるラックから「本屋迷宮」というタイトルの本(というかバインダー)を買うだけ。お値段1050円。
一人でもグループでも参加できるし、比率も同じくらいだったけど、相談しながら進められるから複数人の方が楽しいかな。

本を開くと、文章の量がやけに少ない。あれ?と思ったら、第一章しかない模様。手がかりを集めながら次のページを集めていく形式なのかーとあたりをつけて読みすすめる。
登場人物たちが書泉グランデに閉じ込められてしまうまでの経緯が記されていて、ふむふむと思いつつ、6階から手がかりを集めていく。

リアル脱出ゲームは、この設定を信じる(あえて自由度を無くす)ところから始まる部分があって、この設定に入り込んだ気持ちになりきるのが楽しいので、疑い深くなりすぎず、ツッコミすぎず進めていくといいかなー。

全体の感想としては、コスパの良さ(普通にリアル脱出ゲーム参加すると2500円以上かかる)と、本屋さんを舞台にするという設定自体の面白さが活きていたなーという印象。書泉グランデはたまに使っていた本屋さんだったんだけど、ここまで色んなものが置いてある場所だとは思わなかったし、そういう意味で発見もあった。とはいえ、全体としてはかなりあっさりめの作りでちょっと味気なくもあったので、リアル脱出ゲームに興味があってもう少しお金だしてもいいよーっていう人には常設型のリアル脱出ゲーム(http://realdgame.jp/ajito/)をおすすめ。

あとインドア派には、家で気軽に始められるゲームブックもおすすめ。思いのほか時間かかったので、GWのような長期休暇向きかも。これまでに二作発売されていて、どちらからはじめてもいいけども、二作目のふたご島の方がシステムが改善されていてよかった!


■神保町グルメ
『本屋迷宮』行ってみようかなー?という方に向けて、何回か通ってるお店をいくつかご紹介。というか、むしろ私が神保町グルメ知りたいのでおすすめのお店がありましたら、コメントかリプで教えてください!笑

★avocafe
神保町ランチならここが一押し!女性向けでおひとりさまも多いアボカド専門店。行けば食べごろの美味しいアボカドが食べられます。場所が分かりにくいし、小さいビルに入ってるから初めていくときはどきどきしたけど、中はカフェらしい小奇麗な内装。
平日のお昼時はサラリーマンの方でにぎわっているので、少し時間をずらすといいかも。あと、お店があまり広くないので大人数には不向き。

ランチは、900~1000円で、かぼちゃサラダ+アボカドを使ったご飯もの+飲み物。ここのかぼちゃサラダはヨーグルト使ってるのかな?マヨネーズの味がしなくて美味しい。
ランチは定番のやみつきスパム丼がほんとおいしいし、日替わりもはずれなし。カレーは食べたことないけどおいしいらしい。ランチだとあまり選択肢はないけれど、どれを選んでもはずれなしなのが嬉しい。あとは、デザートのアボカドのレアチーズケーキも美味しかったよー。可愛く盛り付けてくれますし。夜もお酒が豊富みたいだし、いつか飲みに行きたいなー。
アボカフェ (avocafe) - 神保町/カフェ | 食べログ
 
★丸香
都内でも有名なうどん屋さん。お昼時は行列ができているけども、ちょっと時間をずらすと並ばずに入れます。
うどんに詳しいわけじゃないんで、あれこれ語れるわけじゃないけど、本場讃岐うどんに近いうどんだそうです。ここは出汁がしっかりしていて美味しいので、かけうどんかひやかけをオススメ。
あとは天ぷらが下味濃い目&揚げたてでおいしい。ボリューミーなので、分けてちょうどいいかも。うどん+天ぷらで600円とかなので、うどんとしてはやや高めだけど普通のランチとしてはコスパがいいかな。さくっと食べたい方向け。
http://tabelog.com/tokyo/A1310/A131003/13000629/

★STYLE'S CAKES&CO.
神保町で一番おすすめのケーキ屋さん。イートインもあるけど、席がすごく少ない。なので中で食べるというよりは、テイクアウトで使うのがいいと思う。
価格帯は高めだけど、ケーキもキッシュもすごいおいしい!前まで都内でフルーツタルトといえば、キルフェボン(http://www.quil-fait-bon.com/)一択だったのに、このお店に出会ってからは浮気しまくり。

中でも一押しは、いちごタルトとスタンダードキッシュ。いちごタルトはいちごの旬が過ぎたら終わっちゃうのでそろそろ食べおさめ。悲しい。タルトもパイも両方さくさくしてて美味しい。チョコバナナも好き。キッシュ初回はスタンダードを食べてほしいかなー。他の変り種はそのときによってやや合わないときがあるので。

あと、ここは売り切れ次第店じまいしてしまうし、15~16時くらいには終わっちゃうことが多いので、電話予約してから行くのが確実かなー。なんといってもお店をやってるご夫婦が素敵な接客をしてくださるので、一度行ったらファンになっちゃいます。
スタイルズケイクス&カンパニー (STYLE'S CAKES & CO. ) - 神保町/ケーキ | 食べログ

★一茶一会
カジュアルな紅茶専門店。特別美味しいかと言われると難しいけど、ジャスミンミルクティーがたまに飲みたくなる。香りがよくて珍しくて、しっかりしたお茶が楽しめるお店。神保町は全体的にコーヒーが強いので、紅茶に力を入れてるってだけで嬉しいとこがある。
パニー二やカレーもあるし、軽く食べたいときにも便利。
一茶一会 - 新御茶ノ水/カフェ | 食べログ

あと、私は行ったことないけど、神保町で紅茶だったらティーハウスタカノが有名みたい。
ティーハウスタカノ (Tea House TAKANO) - 神保町/紅茶専門店 | 食べログ

★有名店いろいろ
・さぼうる2……味は普通だけど、神保町を代表する喫茶店。コーヒーは少しクセがあるかな。私はちょっと合わなかった。ランチは全体的に量と油が多く、ボリューミーで安い。
さぼうる 2 (サボウルツー) - 神保町/喫茶店 | 食べログ

・スイートポーヅ……最近の味は知らないけど、ちょっと前に食べたときは皮がすごく美味しかった。たぶん持ち帰りも出来るはず。
【閉店】スヰートポーヅ (スイートポーヅ) - 神保町/餃子 | 食べログ
 
・ボンディ……じゃがいもだけでおなかいっぱいになる欧風カレーの有名店。ルーはやや甘めだけどスパイスが効いててこくがあって、お店でしか食べられない味。有名人のファンも多いお店。
http://tabelog.com/tokyo/A1310/A131003/13000439/


「本屋迷宮」は5月12日(日)まで。所要時間は2時間くらいかな。人によるので少し時間に余裕があるとよいと思います。
最後に公式サイトいくつか貼っておきますー。
「本屋迷宮」SCRAP公式より
書泉グランデ
「本屋迷宮」体験インタビュー

映画『図書館戦争』感想

 面白かったー!原作好きの身からしてもおすすめ!
 とはいえ、この映画化が100点満点かと言われると難しい。120点をたたき出している部分もあれば、75点の部分もあるなぁというのが率直な感想。
 少なくとも、良質なラブコメであり、エンタメなので、見て損するようなことはないし、食わず嫌いせずに見てみたらいいんじゃないかと。
 ここから先は映画&原作のネタバレがあるのでご注意下さい。
 大丈夫な方は続きからどうぞ!

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久々の衝動買い。

本とアイドルとご飯には財布の紐がゆるみまくりですけど、他のジャンルには比較的慎重にお金を使う方です。単純にやりくりの問題で。笑

なんですけど。久々に衝動買いしちゃいました。自分でも予想外のやつを。

買ったのは、ディズニー30周年記念で作られた、男性声優によるディズニー楽曲のカバーアルバム。これがねー、すごい良かったんですよねぇ。自分で買っておきながら驚いたくらい。笑

 ディズニーをものすごく愛していて、世界観は絶対に壊されたくない!という方には向いていないと思いますが、たまーにパークに行くし、なんとなく好きだなぁ、という方には向いている気がします。私がまさしくそういうタイプだったので、ディズニー楽曲の導入として楽しかったです。もちろん、声優さん好きには文句なしにおすすめです。

 公式サイト(ミュージック|ディズニー公式)のCMスポットで全曲視聴もできますので、気になった方はこちらで聞いてみてください。声優さんのインタビューもそこそこ長い尺で聞けます。
 ちなみに、まめかんは小野大輔さん推しですー。忙しいときはぼんやり小野さん見て、聞いて癒されてます。ここでもふわっふわした声と手振りでボケたトークしてますw
 これを機に小野さんが気になる方には、いろいろご紹介しますので、良かったらリプください♪笑 あとは、神谷さんもすこーしだけ紹介できます。

 CDのディスク自体も色やデザインもシンプルで、ディズニーらしさがあって良いです。
 ただし、ブックレットはひどいw 笑い出しそうな勢いでチープ!写真使うなら、もうちょいちゃんと撮ってあげてよ!もう少し盛れるから!頑張ろうよ!っていう。というわけで、ビジュアルとブックレットには期待せずに。笑

 ちなみに、私がこのアルバム買おうと思ったきっかけはたまたま聞いた「魔法の鍵~The Dream Goes On」にハマってしまったからです。ぐぐってもらえればわかるんですけど、歌詞もメロディーもむちゃくちゃ良い!疲れてるときに聞いたからか、泣けてきましたもん。
 日本語版の原曲を歌っているのは、石井竜也さんと高杉さと美さん。石井竜也さんのビブラートは本当に心地よいし、高杉さと美さんはむちゃくちゃ声きれいなので、こちらもぜひ聞いてほしいです。さすが本職!なクオリティー


聞き終わって、おすすめしたい!と思った理由がいくつかあります。
1)ディズニーパーク色濃厚な選曲
 ディズニーアニメーションだけでなく、ディズニーのパークね!ここ重要。もちろんディズニーアニメの名曲も多いですが、全体を通して聞くとパークの印象が強い選曲。パークのひたすら幸せな空気感が好きなんで、聞いてるだけで、自分がランドやシーでアトラクション乗ったりパレード観たりしてる気分になれてすごく良い。
 わたしはたまーに行くくらいで、ディズニーは全く詳しくないんだけどそれでも十分楽しい。超有名曲も入ってますけど、王道すぎるほど王道の名曲(A Whole New Worldとか)ばかりでないという絶妙なさじ加減が良かった気がします。名曲であればあるほど、本家の印象が強くて気になっちゃいますし。
 聞くだけでディズニーのうきうきした気分と感動を味わえるアルバム、という点でとってもオススメ。あとは、曲数がそれほど多くないのもビギナーとしてはかえって好印象。

2)アレンジが良い!
 上とかぶるのですが、ディズニーの空気感を出すことや、曲の世界観を引き出すことをすごく大切にされたアレンジだと感じました。どうやら、サウンドプロデューサーの方がディズニーフリーク&ディズニー関連の楽曲に携わっているそうです。曲の一つ一つがとても大切にされているし、一曲の中から光景が見えてきそうな広がりを感じるアレンジ。全体的に音はやや軽く、高め。澄んだ印象のアレンジが多く、きらきらしてます。

3)声優さんの使い方が上手い
 全体を通して、声優さんのキーや声質、歌い方、特徴を上手く使っています。本人名義以外の楽曲に関しては、プロデューサーに左右されるのが声優さんの歌だと思うんですけど、このCDはすごく上手い。本職の歌手じゃなくて、声優さんが歌う意味って、雰囲気を作り出す表現力と、声色の幅だと思うので、必要以上に歌手扱いしないといいますか、声を素材として活かそうとする姿勢に作り手の慣れと腕を感じました。

 というわけで、ディズニーにとことん寄せた楽曲の作り方に加え、朗読のトラックがあるなど、声優&ディズニー導入としてのバランスのよさが高評価です。最近ずっと聞いてますが、飽きが来ません。ディズニーいいなぁ。いやー、衝動買いも捨てたもんじゃないですねー。笑
 ちなみに、私がだだハマりした「魔法の鍵 ~The Dream Goes On」が入っているのは、少々お高めのデラックス・エディションですので、ご注意くださいー。

ここから先は全曲感想になりますので、興味がある奇特な方のみお付き合いください><

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映画2本立て1200円!初めての新文芸坐

『アルゴ』を見逃したのをずーっと後悔していて、どっかでやってないかなー?と調べて行き着いたのが新文芸坐
新文芸坐公式サイト

新文芸坐は映画が好きで、よく観る方には超有名な映画館なんだと思うけど、わたしは全然知らなかった。簡単に説明すると、昔の名作映画や、半年~数ヶ月前まで公開されていた話題作を主に2本立てで上映している単館系の映画館。

今回見に行ったのは、「騙せ!逃げろ!炙り出せ! 2012年、傑作サスペンス映画2本立て」という企画で、裏切りのサーカス『アルゴ』の2本立て。
タイトル通り2本とも2012年公開なので、それほど古くない話題作。数十年前の名作映画の上映企画はさすがに聞いたことがあったけど、まだまだ新しい映画が「2本立て」「1200円」で観られるのか!とびっくり。ちなみに、1200円は学生料金なので、普通は1300円(笑)
映画館の名前を見たときに、薄暗いような映画館を想像していたけど、全く違った。明るいし入りやすい。椅子や音響含め設備も文句なし。

映画館の中は、ほぼ満席。人気の新作を封切りと同時に観にいかないせいか、ここまで埋まってる映画館を見たのは久しぶりだった。自由席だとは思っていたけれど、予想以上の混み具合に席を確保するのにやや戸惑った。朝一の回だったら少し空いてるのかな。あとは、早めに来てロビーで待つとかかなー。どちらにしても、2本目は次の回のお客さんが入る前に入れ替えで空いた席に移動できるので、よりじっくり観たい作品を2本目に選ぶのがいいかも。
わたしが入ったときの客層は、男性が8割で、40~50代以上の方が多かった。企画内容によってばらつきがあるんだろうと思うけど、映画育ちの方多いような印象。ちらほらと、大学生の友達同士や、中学生の女の子を連れた親子も見かけたけども、一人で観に来ている方が大多数。当たり前のように一人で観に行ったので、一人で来ている方の多さに少しほっとした。

面白いなーと思ったのがロビー。映画好きが集まる場所だからか、映画関連の書籍や昔のパンフレットが売られている。気になるものが多い。思わず買いたくなっちゃうなぁ。
あと、映画をたっぷり楽しめるように、相関図とか、あらすじとか、舞台設定といった事前知識をまとめたボードを用意してくれている。こういうの嬉しいよね。せっかく観るならたっぷり楽しみたいし。特に『裏切りのサーカス』は事前知識がないと置いてきぼりにされてしまいがちだから、この親切がすごく有難い。映画を全力で楽しめるようにしてくれる映画館。本当に映画を観るための映画館なんだろうな。新文芸坐。二本立ての間に15分の休憩が取られているんだけど、ロビーの充実っぷりに、休憩まで存分に楽しめた。

あと、新鮮だったのが予告。新文芸坐でかける映画の予告なんだと思うんだけど、最近の作品のほかに、数十年前に作られた映画の予告がスクリーンで見られる。こんな映画作られてたんだ!とか、これがかの有名な!とか予告まですっごいどきどきした。笑

そして一本目裏切りのサーカス

映画『裏切りのサーカス』予告編
http://uragiri.gaga.ne.jp/

「サーカス」というのはいわゆるサーカスではなく、イギリスのスパイ組織のこと。これは一回観ただけじゃぜんぜん味わえないんだろうなってことがよく分かった。とにかく頭を使うし、疲れた!!笑
簡単に言ったら、上司と共に干されてクビになったおじいさんスパイが調査を重ね、自身の古巣である、イギリスのスパイ「サーカス」幹部に存在するソ連の二重スパイ(もぐら)を探すという話。
たぶん、セリフを意図的に削っていて、代わりに映像に詰め込まれる情報量が尋常じゃなく多い。にも関わらず、現在と過去、イギリスとソ連の様々な場所を説明なしで行き来する。映像から、舞台設定を理解→人物を理解→意味を理解と、3段階の理解をハイスピードで行ないつつ、時系列順に積み上げて行かないとあっという間において行かれる。笑 
しかも一人ひとりに本名とコードネームがあるし、中盤まで登場人物の変換が出来なくて大変だった……。一応HP見て予習したんだけど、相関図を印刷してくればよかったなーと思ったので、これから見る方は片手に相関図を持つのをおすすめ。

一つひとつの映像が少しずつ繋がっていってラストに向かう作りはすごく好みで、面白かった。セリフが多くない分、頭を使うけど、解釈に幅が生まれて味わい深い。ああ、ここ隠喩だったのか!とか、伏線か!とか、あとからみたらこんな背景が!みたいな体験がすごく多い。観るのすっごい疲れるけど。笑
あと、映像のワンシーンワンシーンもすごくこだわって作ってあるから、普通に撮ったら地味になりそうなシーンがいちいち魅力的でスタイリッシュだった。

印象的だったのは、自分達が最前線で活躍していた、戦争のころが懐かしい、あの頃はイギリスに誇りを持てていた、と言うとある登場人物。
華々しい過去と、何一つ思い通りにならず軽んじられる今の対比に、しんみりしてしまう。登場人物たちや、「サーカス」内部だけでなく、イギリスの現状にも重ね合わせてしまうような映画だった。
評判通り、二回目を観るとがらっと印象が変わりそうで、作りこまれた作品。

二本目は『アルゴ』。

『アルゴ』予告
映画『アルゴ』公式サイト

『アルゴ』は賞レースでも話題の作品。
わたしはこっちのほうが好みだった。いい意味であっけらかんとしていて、分かりやすくベタなんだけど、そのベタに引き込まれる映画。万人受けする、エンタメらしいエンタメ映画。
1979年の11月4日、イランで革命が激化する中、過激派がアメリカ大使館を占拠することから始まる。52人が人質になる中で、辛うじて6人のアメリカ人が逃げ出し、カナダ大使の私邸に匿われる。過激派に見つかったら見せしめとして残虐に処刑されるのは目に見えている状況で、人質救出の専門家トニー・メンデスは、どうにか無事に6人を国外に脱出させようとする。そして、最後にたどり着いたのは、架空のSF映画『アルゴ』を企画し、6人をイランにロケハンに来た撮影スタッフと偽って出国させる作戦だった……。というあらすじ。

こっちはほんとベタなエンタメだから、頭は一切使わずに見れるし、2本目に最適。笑
登場人物もほどよくキャラが立ってるから入り込みやすい。こんな荒唐無稽なストーリーなのに、実際に行われた作戦っていうのがまた面白い。現実は小説より奇なり。
不勉強だから、イラン革命のこととか、全く知らずに見たわけなんだけど、導入の政治的背景の説明がとてもスムーズ。なぜイランで革命が起こっているのか?なぜ反アメリカなのか?等々の説明が堅苦しくなく、すっと入ってきた。
冒頭は、占拠する過程と現状説明なんだけど、数の暴力を感じる。逃げ場も、救助も見込めない中、言葉も分からないけど激昂している過激派に囲まれる恐怖が尋常じゃない。しかも、外には絞首刑になったアメリカ人の死体がクレーンで吊るされているわけで。見つかったら自分もああなる……。その恐怖と、不安がひしひしと伝わってきた。先日のアルジェリアの件とかも思わず重ね合わせてしまった。外国で仕事するってこととか、政治のこととか。いろいろ考えてしまう。

『アルゴ』のスリルは、人質救出が先か、過激派に追い詰められるのが先かに集約されていく。わたしが見た範囲のドラマの中では『ダブルフェイス』の一本目を思い出す感じ。中でも怖かったのが、逃げた6人が顔バレしたら終わりな状況で、シュレッダーにかけられた大使館職員の名簿を子どもたちが少しずつ元に戻していくところ。何にも知らない子ども達が知らず知らずのうちに過激派を支えている映像がなんともリアル。小耳に挟んだ知識が映像に起こされることで、組み合わさって一気に手触りを持つ感覚があった。
そんなスリルの中で、少しずつ仲間としてチームが出来ていったり、はたまた組織の一員としての苦悩があったり、家族愛があったりと、普遍的な題材が描かれながら上手くかみ合い、作戦を遂行していく過程にはヒーローものや少年マンガに通じる高揚感があった。
このあたりがすっごいベタ!!!でも、なんだかんだベタも好きなんだよなー。引き込まれる。笑

ややあざといし、ベタだし、題材が題材なだけに、これが完全にフィクションだったら、リアリティーがない!ご都合主義だ!と一蹴されたかもしれない。このあたりのバランスが監督の手腕なんだろうなぁ。登場人物をスーパーマンではなく地に足の着いた人間として描きながら、アメリカサイドをデフォルメして、イランサイドを出来る限りリアルに映したことと、現実に起こった事件と作戦という史実の力が相まって、微妙なバランスでリアリティーのあるエンタメ映画として成立させた感じ。なんだかんだ、こういうバランスの映画が一番好きかもしれない。

裏切りのサーカス』は好みが分かれるし、リピーターに熱狂的に支持される映画で、『アルゴ』は誰にでも薦めやすい良質なエンタメ映画。カラーは違うけど、どっちもすごく楽しめた。役者さんは両方ともハマリ役。

そして、映画の内容と別に、新文芸坐で映画観るのすっごく楽しかったし、特別な体験になったなぁと思う。自分好みの映画とスクリーンで出会える場所だった。初めて行ったうえに映画好きでもない身で語るのもなんだけど、企画のパッケージの仕方も的確だし、ここでかかってる段階でどこか面白い部分がある作品なんだろうな、と思わせてくれるような信頼の置ける映画館だった。映画を楽しませてくれる映画館。歴史ある映画館らしいのでそれも納得。今年からは新文芸坐みたいな映画館でもっと観たいなと思う。一人映画に抵抗ない方だったら、ほんとおすすめ。

ちなみに、新文芸坐での上映は2/15(金)までらしい。他にも上映しているところはあるけど、どちらにしても映画館で観たい方はお早めに。『裏切りのサーカス』はDVD出てるし、『アルゴ』ももうすぐ出るみたいだけど、映画館で観てよかったなーと思う。
両方とも派手なシーンはそれほどないけど、何より集中出来るし、囲まれた音響が臨場感を一気に増すし、周りの緊張で一緒にはらはら出来て楽しかった。

映画を観るってメジャーな娯楽だけど、こういう場所は知らなかったわけで。いやー、まだまだ知らないことばかりだなぁとしみじみ思った。笑

『何者』に見る「賢いメタ視点」の終焉

今回取り上げる『何者』はご存知の方も多いと思う。ネタばれ&長文&どんぴしゃ世代のだいぶウエットな感想なのでいろいろ注意。未読の方は、感想なんて読まなくていいので、今すぐ注文するか、本屋に行って欲しい。

初めて本屋で見かけた時、あらすじと、代わり映えしない証明写真のイラストが整然と並べられた表紙にたまらなく惹かれた。わたしが20代の学生だからかもしれない。同時に、何度も買うのをためらい、読むのをためらった。これを読んだら、何かが変わってしまう気がした。もう少し言葉を費やすと、周囲に取り巻いているなんとも言い難い現象・感情に的確な表現がされることも、今まであいまいになっていたことが指摘されて暴かれてしまうことも、たまらなく怖かったのだ。しかし、筆者がほぼ同世代の朝井リョウさんだったために、無視することも出来ず、何が書いてあるのか読まないといけないと思っていた。

そして先日、直木賞受賞を機に、覚悟を決めてこの本を開いた。気負って読み始めたせいか、読み終えてすぐは「思ったより大丈夫だった」とほっとしたくらいで、それほどダメージを受けていると思わなかった。そして、「ああ、これはわたしたちのための小説だ」と素直に思った。この「わたしたち」には、同じ学生も、20代・30代のいわゆる若者も、ネットを駆使している人も、SNSに生息している人もすべて含まれている。『何者』はネットが当たり前に存在する生活を描き、現代の「自分探し」を底まで掘り下げたリアル過ぎる現代小説。しかし、読み終えて数日後、ふとした瞬間に、本の中のフレーズが頭の中をぐるぐると回っていることに気付く。予感していた通り『何者』には気付かないうちに読者の中に溶け込み、じわじわと侵食していくような言葉が詰まっていた。
あと、意識していなかったけれど、少なくともわたしは、こういう言葉を誰かに言って欲しかった。けれど、これを面と向かって言われたら、あまりにも痛く、救いがない。だから「本」くらいの、わたしだけじゃない、多数の誰かのために用意された言葉・距離で伝えて欲しかった。そんなわがままに応えてくれる本は当分出てこないだろう。その点でも非常に得がたい一冊だった。

印象的な文章をいくつか抜粋。人物名は念のため伏せておく。

想像力。想像力。○○ならきっと、こういうセリフを、外に発信する。本当に大切な思い出を語るわけではなく、何者かである自分を飾るための材料として。

もっともっとがんばれる、じゃない。そんな、何の形になっていない時点で自分の努力だけアピールしている場合ではない。何のためにとか、誰のためにとか、そんなこと気にしている場合じゃない。本当の「がんばる」は、インターネットやSNS上のどこにも転がっていない。すぐに止まってしまう各駅停車の中で、寒すぎる二月の強すぎる暖房の中で、ぽろんと転がり落ちるのだ。

ほんとうにたいせつなことは、ツイッターにもフェイスブックにもメールにも、どこにも書かない。ほんとうに訴えたいことは、そんなところで発信して返信をもらって、それで満足するようなことではない。だけど、そういうところで見せている顔と言うものは常に存在しているように感じるから、いつしか、現実の顔とのギャップが生まれていってしまう。ツイッターではそんなそぶり見せてなかったのに、なんて、勝手にそんなことを言われてしまうようになる。自分のアイコンだけが、元気な姿で、ずっとそこにあり続ける。(中略)俺たちは、人知れず決意していくようになる。なんでもないようなことを気軽に発信できるようになったからこそ、ほんとうにたいせつなことは、その中にどんどん埋もれて、隠れていく。(中略)日常的に○○のことを補完してくれるものがたくさん存在してしまうから、意図的に隠されていたような気持ちになってしまう。(中略)ほんとうのことが、埋もれていく。手軽に、気軽に伝えられることが増えた分、ほんとうに伝えたいことを、伝えられなくなっていく。

メールやツイッターフェイスブックが流行って、みんな、短い言葉で自己紹介をしたり、人と会話するようになったって。だからこそ、その中でどんな言葉が選ばれているかが大切な気がするって(中略)短く完結に自分を表現しなきゃいけなくなったんだったら、そこに選ばれなかった言葉のほうが、圧倒的に多いわけだろ(中略)だから、選ばれなかった言葉のほうがきっと、よっぽどその人のことを表してるんだと思う(中略)たった一四〇字が重なっただけで、○○とあいつを一緒に片付けようとするなよ(中略)ほんの少しの言葉の向こうにいる人間そのものを、想像してあげろよ、もっと

思ったことを残したいなら、ノートにでも書けばいいのに、それじゃ足りないんだよね。自分の名前じゃ、自分の文字じゃ、ダメなんだよね。自分じゃない誰かになれる場所がないと、もうどこにも立ってられないんだよね。

『何者』のもやもやした読後を理解するためには、社会学を重ねると少し分かりやすい気がする。手元にある、この本から関係のありそうな部分を抜き出してみる。

人生うまくいかなくても過剰にみじめにならず、自分がそこにいていいんだ、自分は生きていていいんだ、自分は他者に受け入れられる存在だ、と思えることが「尊厳」だった。(中略)「尊厳値」が低ければ、他者の前で思い通りにはふるまえない。能力が理由であれ、性格が理由であれ、信仰が理由であれ、「自分はバカにされるんじゃないか」「自分は許されない存在なんじゃないか」と思わざるを得ない(中略)自由であるためには「尊厳」が必要なんだ。

そして、「尊厳」は自分以外の他者に「承認」される経験を必要とし、他者から「承認」された経験があるからこそ、「尊厳」(失敗しても大丈夫だと思える気持ち)が得られる、という。
試行錯誤(自由にふるまう)→承認→尊厳→試行錯誤のループで、人は成長していく。試行錯誤は、勉強でも運動でも、何でもいいけれど、何かしらの挑戦と言い換えればいい。しかし、現代は承認を与えてくれるみんな(他者)があいまいになることで、安定した「承認」を得られず、安定した「尊厳」を得られず、ますます「みんな」があいまいになっていく、悪循環の中にいる。

すると、現実には3つのタイプが出てくる。1つ目が、他者に「承認」して欲しいあまり、周りの期待に反応しすぎるタイプ。他者に気に入られたくて、「いい子」を演じたり、周りに遠慮して意見を言えなかったりする。「AC(アダルトチルドレン)」と呼ばれるタイプだ。2つ目は、他者に「承認」して欲しいあまり、周りの期待と自分の能力の落差に直面して失敗するのがこわくなり、「試行錯誤」にふみ出せなくなるタイプ。「尊厳」に問題があるので、「自由」から見放されてしまうこのタイプは、一部「引きこもり」に当てはまる。3つ目が、他者から「承認」されない環境に適応してしまい、「承認? 何それ?」とばかりに、他者との交流と結合した「尊厳」を投げ出すタイプ。

『何者』では特に、「試行錯誤」と「承認」のアンバランスさに悩む2つ目のタイプが、歪な形でそのアンバランスさを解消し、どうにか「尊厳」を保とうとする過程をリアルに描いていた。
現実世界で満たされない「承認」をネット上の「承認」でどうにか補おうとし、周囲を内心「承認」しないことで、「尊厳」をどうにか保とうとする彼ら。ここまで書いて、この間TVの特集を見ながら、ツイッターフェイスブックニコニコ動画も「わたしを認めて欲しい!」気持ちの塊で出来ていると感じたのを思い出した。しかし、彼らは「賢い」がゆえに、もう一つメタな視点では、中途半端なネット上の「承認」では自分が満たされないことも、他者を貶めて「尊厳」を保つ虚しさも理解している。この、「賢いメタ視点」こそが、ネットに救いを求め、ネットに満たされない理由なのだと思う。朝井リョウさんはSNSに散見する「何者かになりたい!」気持ちの発露する過程や瞬間、「賢いメタ視点」を持つ不幸にも鋭く切り込むことで、「何者かになりたい」わたしたちの、切実な叫び、不安、悲哀を切り取っていた。それがとても心に残った。

わたしも「何者かになりたい」という気持ちはどこかで諦めきれずに持っているし、書きたいから書いてるこの文章だって「何者かになりたい」が目に見える形になった、とも言えるだろう。主人公の拓人なら“自分の平凡さから目を背け、誰かに認められたいというだけの自意識の表れであり、彼女がネットの片隅で文章を書くことに果たして意味はあるのだろうか”とか言うかもしれない。いや、分からないけど、こういう感じのキャラクター。笑

そんな読者や、登場人物に対して、他人を批評して眺め、悦に浸り、「尊厳」を必死で守ろうとしているだけでは、「何者か」になんて到底なれない、というメッセージがぶつけられる。何者でもない人が何者かになるためには、痛くたってダサくたって、自分に出来ることを泥まみれでやるんだよ、待ってるだけで何者かになんてなれないんだ、と訴える。グサッときた。そして、「何者にもなれないと薄々分かりながら、何者かになりたい」人たちが、それでももがこうとして生まれる痛み、もがくことすら出来ずに生まれる傷み、さらには、何者かになれると信じていたけれど叶わなかった空虚さが生々しく描かれる。

『何者』は徹頭徹尾「何者かになりたい」若者たちによる「自分探し」の物語だ。しかし、ここで描かれる「自分探し」は、最後までどこか閉塞的で開放感がなかった。それどころか、最後の最後で「自分探し」は放棄され、「自分探し」を行った結果も、現実での成功も描かれなかった。
ここでの「自分探し」は、無意識に「自分探し」をしている自分と、「自分探し」をしている自分を眺めて批評する他者と、「自分探し」をしているわたしを眺めて批評する他者を批評する自分、の入れ子細工のようなメタな構図によって語られる。「自分探し」の放棄は、同時にメタ視点の放棄に繋がる。その一方で、「何者かになりたい」が、メタ視点で批評される「自分探し」なんてぬるい理屈に収まるものではなく、切迫した、根源的な欲望であることも示される。

少し脱線するが、ネットに浸かれば浸かるほど、最もメタ視点を持って発信している人が正しい気がしてしまう。そして、メタであるほど正しい=メタでないほど価値がないような気がしてしまう。○○を知らない人が○○を語るな、とか、○○はどうせ○○なんだから戦略だよとか、まあ分かるんだけど、でも全部をそれに収束させてしまったらおしまいだよな、と思ったりもする。そのくせ、わたしもついついメタ視点で何かを考えようとする。メタにメタを重ねていくことは確かに面白いし、賢くなったような気持ちになれるし、それが真実を示すときもあるだろう。メタにこだわってしまうのは、その手法が肯定されやすく、手っ取り早く「賢く」なれて、正解に近づいたような気持ちになれるからだと思う。メタの階層を行き来するほど簡単な批評はないくせに、その方法が染み付いている自分が虚しい。そんな風にメタ視点を使って、自分を納得させて、世間を納得させようとして、わたしには何が残るんだろう。その答えの一つがラストにあった。

地の文を読んでいて思ったのは「賢いメタ視点」に耽溺しても何にもならないことを、主人公はちゃんと分かっていたんだろうということ。それまで必死で育ててきた「賢さ」を放り投げ、どこかで「馬鹿」にならなければいけないことも、これまで自分が嗤ってきたように、「賢い」人たちに嗤われながら、歩む覚悟を持たなければどこにも行けないことも、たぶん分かっていた。正しい、正しくないなんてどうでもよくて、自分が思う道、選んだ道を、どうにかして進まないといけないことも、何年批評するよりも、どれかを選び、一日行動するほうがよっぽど未来が開けていくことも分かっていた。それでも、嗤われることが怖かった。この気持ちが痛いほど分かった。だから主人公は、「賢さ」へのこだわりこそが「馬鹿」だと嗤われ、仲間を得て、初めて「賢さ」を捨てることを選べたのだろう。
嗤われることに怯えながら、誰かを嗤う、「賢い」人ばかりで溢れかえる“いま”はなんて息苦しいんだろう。「賢さ」で負った傷を慰め、「馬鹿」な自分を肯定しながら、一人でどうにか生きていこうとするわたしたちの、寂しく、苦しく、遠い道のりを思う。でも、この辛さを抱えることが、現代の「通過儀礼」となり始めていて、もう逃げてばかりではいられない。
暗いだけの道を歩むのは怖いから、いつか誰かに認められる日を夢を見る。嗤われるのが辛いから、同じように「馬鹿」になろうとし、同じように嗤われて来た周囲の友人や先輩と慰めあい、身を寄せ合う。彼らが「賢さ」の傷をえぐったとしても、その温もりがなければ生きていけない。これがわたしたちに唯一残された優しさなのである。

『何者』が象徴するように、「賢いメタ視点」で育った世代がそれに疑問を抱き、捨てようともがき始めることで、「賢いメタ視点」は少しずつ縮小していくだろう。それが進んで行く中で、よどんだ日常に風穴を開ける時が来るかもしれない。それにしても、これまで助けられてきたはずの「賢さ」が、わたしたちを新しい不幸に導いたことがなんだか悲しい。そして、いろんなものを捨てても「何者かになりたい」欲望だけは捨てられない、人の業。しかし、この欲望が人をどうにか立たせている。たぶん「何者かになりたい」欲望が潰え、身を寄せ合う人がいなくなったら、わたしはゆるやかに死に向かっていくのだと思う。

書きたいことが多すぎて、これだけ文字を費やしても上手くまとまらない。なので、最後に伝えたいのは、とにかく読んで欲しいということ。読み終えてもスッキリしないし、賛否いろいろあるだろうけど、そこがとっても魅力的。角度を変えたら全く違う小説になるし、読み方の幅も本当に広い。ミステリーとして読んだらやや無理があるとか、主人公が語りすぎとか、細かいことは抜きにして、23歳の朝井リョウさんの言葉は本当に響く。ハードカバーで買っても損はないし、何より文庫が出る数年後ではなく、“いま”読んで欲しいと思う。ただ、もしも、冒頭の、ツイッターのプロフィール画面の並びを見てもピンと来なければ、ピンと来る日まで読まなくて良いと思う。笑
特に、同世代と、SNSやブログ等、当たり前のようにネットを使い、使いこなしていると思っている人には間違いなく刺さる。中でも、わたしのように理屈をこねくりまわしている人は、致命傷になりかねないので読む時期に注意(笑)

すごく厄介で、不安で、それでも“いま”を生きていて、“これから”を生きていくこと、その意味を心から実感する。

風化しないナンシー関

ナンシー関の文章を初めて読んだのは中学校一年生の時だった。自由になるお金なんてほとんど持ってなかったので、古本屋でたまたま出会った一冊の文庫本を繰り返し読んだ。大してテレビを見るわけでもなく、芸能人に興味もなかったくせに、テレビと芸能人を独特の角度から切り取ったナンシー関のコラム集はとても面白かった。これは今でも本当に不思議。そして最近、ナンシー関の切れ味が恋しくなって買ってみたのがこれ。

導入本なので残念ながら厚みの割りにナンシー関が薄い。これなら文庫本を全巻そろえればよかった!とは思ったけれど、当時のテレビ事情を知らないので確かに解説はありがたかった。
中学生の頃は言いたいことが良く分からないけどとにかく楽しく読んでいたのだが、今はアイドルのファンで、テレビも結構見るようになったため、コラムの内容が分かるようになってよりいっそう楽しかった。

目に留まったコラムを少し抜粋。

「ブーム」とは「社会現象」と呼ばれるようなものの常であるが、核(当事者というか、本当に「好き」だったり「支持」したりしている層)の大きさなど関係ないのである。その核の正味の大きさがわからなくなるほど、社会通念を自分の感情と思い込んでいる程度の「木村拓哉肯定層」がぶ厚く取り巻き、どんどん巨大になっていく人垣を「ブーム・社会現象」と呼ぶのではないだろうか。木村拓哉の「人垣」は確かにでかかった。(中略)皇太子の結婚パレードを思い出すなあ。人のるつぼの半蔵門、「今、通ったって」という噂だけが、遠い向こうから伝言ゲームみたいに伝わってきただけ。関係ないけど。(中略)中心近くの核にいる「ファン」は、飛び出た鼻毛まで見えているわけである。でも、鼻毛が出ていることは「外部=人垣の外側」には言わない。絶対に口をつぐむ。それが、ファン。


木村拓哉不人気ブーム到来の可能性を見た」『何だかんだと』2000年

コンサートのライブビデオなどで、ステージ上のアイドルとそのアイドルを前にして熱狂するファンを見るとき、いつもある図式が思い浮かぶ。それは、アイドルを中心にしてファンの人垣がそれを取り囲み、ファン以外の私たちはそのさらに外側で人垣のすき間からアイドルを見ているという図式だ。私たちは、叫んだり飛び跳ねたり放心状態になっていたりするファン越しに、というかファン込みで、アイドルを見るのである。ファンの人垣は、一種のフィルターの役割を果たす。ファン以外には何の価値もないそのアイドルの一挙手一投足に、少なくとも価値があるだろうことを認識させる効果ぐらいはある。


「フィルターの外れた南野陽子は…」『何様のつもり』1992年

「不安」な感じこそ、「美少女」に欠くことのできないスパイスだと思う。(中略)ちょっと乱暴な例だが、たとば最近流行の死体写真集。嫌だけど、どうしようもなく見てみたいという気持ちがある。単なる「コワいもの見たさ」よりも、もうひとつ複雑な気持ちだ。そして実際に見たとき、その死体写真から受ける「不安」と、もうひとつ、こういうものを見たがる自分の気持ちに対する「不安」を同時に感じるだろう。


「本物の美少女は見るものに「不安」を抱かせる」『何の因果で』1994年

世の中にはいろいろな物事があり、そしてそれが複数の人間の目に触れるものであればそこには必ず「評判」というものが発生する。たとえば自分しか見ない日記には「評判」は発生しないとしても、昨日の夕飯のおかずについてはたとえ3人家族であったとしてもその家庭内において「評判」は発生するのである。(中略)今の世の中、実態を知らなくても色んなところで見聞きした「評判」で、その物事をわかったつもりになっていることの何と多いことか。(中略)そこで必要になるのが、『評判』という機能を処理する能力である。


「メディアジャンキー『TVブックメーカー』」『何を根拠に』1991年

インターネットには、いろんな特性や効用があり、その中のひとつに「隔離された小世界をのぞき見る楽しみ」がある。(中略)たとえば、助走をして蒸気機関車の写真を撮りに行くことがたまらなく好きであるという人が日本全国で40人いたとしよう。(中略)インターネットがある現在、この40人は集うことが出来るのである。いや、実際に顔を合わせることはもしかしたらないかもしれない。でも、ネット上の空間で「集団」となることができる。そうやってできあがったネット上の無数の「小世界」を、私たちものぞき見ることができるのである。


高知東生高島礼子夫妻の公式サイト。その「絆」強し」『何だかんだと』2001年

世の中はどんどんぶっちゃけてきているわけだ。「本音・建てまえ」という言葉が流行したのはもう何年も前のことであるが、本音→おもしろい、建てまえ→つまらない、という考えは完全に定着した概念になっている。


「更に深く進化した高知東生エステCMの関係」『何がどうして』1999年

読めば読むほど、2013年の彼女のコラムが読んでみたい。
こうやって眺めると、最も寿命が短いと思われるテレビ評・芸能人評ですら風化していない。抜粋した中には20年以上前に書かれたものが含まれているにも関わらず、である。20年近くテレビや芸能人の在り方が変わっていないのかもしれないが、それでも20年に耐えうる「何か」が彼女のコラムには存在するように思う。

もちろん、彼女のコラムのすべてが2013年とぴったり重なるわけではない。例えば、芸能人と人垣の外部の関係はやや変わってきているだろう。今の芸能人は、ファンだけでなく、外部にも鼻毛を見せることを求められているように思う。ナンシー関が指摘するように、ぶっちゃける=おもしろい、の風潮がさらに加速しているからなのかもしれない。そのために、芸能人は鼻毛を常に美しく整えるか、諦めて鼻毛をさらすか、どちらかを選択するのである。前者には、鼻毛が見つかったときのリスクとぶっちゃけていない、と批判されるリスクがある。よって、多くの芸能人は後者を選択する。そして、ファンも外部の批判に負けじと、鼻毛まで愛している!むしろ鼻毛が彼・彼女の魅力なのだ!と声高に叫ぶ羽目になる。たまに前者を選択し、そつなくこなす芸能人がいると、ファンはもともと鼻毛が出ていたことは分かっているが鼻毛を美しく整えている努力がすばらしいのだ!と叫ぶことになる。かといって、ファンが鼻毛を見なかったことにしたり、外部に反論すると、今度は外部が鼻毛が出ている部分だけを切り取って笑いの種にして、おせっかいにもファンにそれを無理やり見せようとする。なかなか面倒な関係である。

一方で、アイドルと人垣の話はあまり変わらず、身につまされる思いだ。今、外部にとって最も身近な人垣は、インターネットの中に存在するアイドルファンが集まる無数の小世界によって作られているように思う。真ん中にいるアイドルを見て、熱狂していると、せいぜい前後左右のファンの動向くらいしか気にならない。しかし、それをさらに外から眺めている外部は確かに存在する。わたしの好き勝手な感想や挙動一つで何かを左右するとは思わないが、人垣の端に自分が存在していること、よくも悪くもわたし自身が無数のファンの一人として外部に観察されているということは忘れないでおこう。

ここまで書いてみて、ナンシー関のコラムが風化しないのは、内容の的確さだけでなく、ちりばめられた針の多さ、引っかかりの多さにあるのかも、と思い始めた。今の自分の興味を発見するのに、このコラムは本当にぴったりだ。
彼女のコラムは読み終えて、納得出来る、反対である、と簡単に通り過ぎてしまうのではなく、引っかかったフレーズを見つけそこから少し思考を広げる体験が出来る。上手く言い表せないけど、コラム一つひとつがブログ記事を書く材料になる感じ。
あと、多分、同じコラムを読んでも、今日と一年後では違う針に引っかかる。それがついつい読み返してしまう理由なのかも。前提として、ナンシー関の文章やたとえ話の選び方が好きっていうのももちろんあるんだけれども。
今度は文庫本とムックを読んでみよう。特にムックは、ナンシー関評を、誰がどうやって書いてるのか気になる。