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小骨の欠片

まめかんの日常。

ロックかポップか

先日、久しぶりに「音楽と人」を手に取った。理由は簡単。表紙と巻頭インタビューがゆるーくファンを続けている秦基博さんだったからだ。

音楽と人 2013年 02月号 [雑誌]

音楽と人 2013年 02月号 [雑誌]

歌が上手すぎるからかえって伝えたいことが伝わらない苦悩、歌声に頼らないためにメロディーと厳しく向き合わなければいけないなど、秦さん特有の切り口が面白い。そして、読み進める中で気になるフレーズが。

“たとえば自分のために歌う歌をロック、誰かのために歌う歌をポップというならば”

これは秦さんのアルバムを聴いたライターさんの言葉の一部。たとえば、とライターさん自身が仮定しているように、わたしもロックやポップがこれで言い表せるとは思わない。そもそも、音楽のジャンルはロックとポップにとどまらないから、分け方としてはいささか乱暴かもしれない。

ただ、これを読んで“ポップ”な音楽の先には必ず聴き手がいて、聴き手の共感や反応を含めて“ポップ”なんじゃないか、そういうごくごくシンプルな感想がストンと腹に落ちた。聴き手も大衆もよく分からないこの時代。改めて聴き手を相手にする“ポップ”って面白いなぁと思った。

5~6年前、軽音部でギターを弾いていた頃、ポップ的なものはどこかダサいと思っていて、ロック的なものはかっこいいと思っていた。ポップを面白いと感じる日がやってくるとはまるで思わなかった。しかし、かっこいい/ダサい、それ自体がわたしに合っているのか?ということを問い直す日がやって来る。

高校3年生の終わりにアイドルにハマった時だ。それまでどこかで馬鹿にしていたアイドルソングを聴くようになり、そのままポップにも手を出すようになった。

変な話だけれど、アイドルを肯定的に見始めると、エンタメ全般にかかっていた謎の偏見やフィルターがきれいに剥がれる。色眼鏡を捨てて聞き始めたらアイドルソングもポップもすごく好きだった。というか、もともと王道が大好きなのに音楽だけ違うはずがなかった。驚くほどあっという間に、売れている音楽に転がっていった。

最近はアイドルソング・ポップ・ロック全部雑多に聴くし、たまーに興味本位で新しいバンドに手を出す。しかし、高校生のときに必死で次に来るバンドを探していた熱量はどこかに消えた。過去のわたしを捨ててしまったようで、それが少し寂しいときもある。

音楽に限らず、誰にでも理解できるもの、大衆が受け入れてるものを好きな自分=ダサい、の感覚は今でもどこかに隠れている。裏返すと、“わたしだけが分かる○○”は、平凡だと自覚しているからこそとても甘美なフレーズだし、気付かないうちに滲み出ているんだろう。

それでも今は、合わないものは合わない。面白いものは面白い。嫌いなものは嫌い。好きなものは好き。とわたしの中は結構シンプルになった。ダサいとかかっこいいよりも、合わないとか面白いで日々を過ごす方が性に合ってたし、それで十分。タイトルに戻ると、“ロックかポップか”じゃなくて“ロックもポップも”が理想だし、ジャンルにこだわらないでいたいなぁとはぼんやり思う。

あえて選ぶならば、今はポップを選ぶかな。最初に触れた“ポップ”のあり方がそれほどずれていないと仮定したうえでだけど。ナタリーいきものがかりインタビュー

このインタビューを読んでも感じるけども、“ポップ”を作る過程を面白いと思うし、今、“大衆に支持されている”ってこと自体がすごく興味深い。

我ながらなんとも他愛ない感想。

とはいえ、“売れている”“分かりやすい”ものに積極的に触れるようになってから数年経ち、熱を込めながら冷静に、じっくり眺められるようになってようやくこんな感想を持つようになったのもまた事実。

この感想を単体で見たら、たぶんどうでもいいものだと思う。だけど、こうやって気ままに触れるすべてから、好きなもの、嫌いなもの、好きの中の嫌い、嫌いの中の好き、よくわからないけど引っかかるものを言い続けて理由を考えるうちに、見えてくるものがあるんじゃないかなと思っている。統計データみたいに。

そんなわけで、ここまで散々“ポップ”なものに興味がある!と語ってきたけれど、このブログはある種“ロック”に綴っていこうと思う。“ポップ”なものは、もう一つのブログで書けているような気がするし、そちらに全部注ぐつもり。

だからこちらは、どうにも気になるものの断片と自分のための言葉で埋めていこう。気付いたら引っかかっていて気になって仕方ない、魚の小骨みたいな小さな欠片で。