小骨の欠片

まめかんの日常。

『何者』に見る「賢いメタ視点」の終焉

今回取り上げる『何者』はご存知の方も多いと思う。ネタばれ&長文&どんぴしゃ世代のだいぶウエットな感想なのでいろいろ注意。未読の方は、感想なんて読まなくていいので、今すぐ注文するか、本屋に行って欲しい。

初めて本屋で見かけた時、あらすじと、代わり映えしない証明写真のイラストが整然と並べられた表紙にたまらなく惹かれた。わたしが20代の学生だからかもしれない。同時に、何度も買うのをためらい、読むのをためらった。これを読んだら、何かが変わってしまう気がした。もう少し言葉を費やすと、周囲に取り巻いているなんとも言い難い現象・感情に的確な表現がされることも、今まであいまいになっていたことが指摘されて暴かれてしまうことも、たまらなく怖かったのだ。しかし、筆者がほぼ同世代の朝井リョウさんだったために、無視することも出来ず、何が書いてあるのか読まないといけないと思っていた。

そして先日、直木賞受賞を機に、覚悟を決めてこの本を開いた。気負って読み始めたせいか、読み終えてすぐは「思ったより大丈夫だった」とほっとしたくらいで、それほどダメージを受けていると思わなかった。そして、「ああ、これはわたしたちのための小説だ」と素直に思った。この「わたしたち」には、同じ学生も、20代・30代のいわゆる若者も、ネットを駆使している人も、SNSに生息している人もすべて含まれている。『何者』はネットが当たり前に存在する生活を描き、現代の「自分探し」を底まで掘り下げたリアル過ぎる現代小説。しかし、読み終えて数日後、ふとした瞬間に、本の中のフレーズが頭の中をぐるぐると回っていることに気付く。予感していた通り『何者』には気付かないうちに読者の中に溶け込み、じわじわと侵食していくような言葉が詰まっていた。
あと、意識していなかったけれど、少なくともわたしは、こういう言葉を誰かに言って欲しかった。けれど、これを面と向かって言われたら、あまりにも痛く、救いがない。だから「本」くらいの、わたしだけじゃない、多数の誰かのために用意された言葉・距離で伝えて欲しかった。そんなわがままに応えてくれる本は当分出てこないだろう。その点でも非常に得がたい一冊だった。

印象的な文章をいくつか抜粋。人物名は念のため伏せておく。

想像力。想像力。○○ならきっと、こういうセリフを、外に発信する。本当に大切な思い出を語るわけではなく、何者かである自分を飾るための材料として。

もっともっとがんばれる、じゃない。そんな、何の形になっていない時点で自分の努力だけアピールしている場合ではない。何のためにとか、誰のためにとか、そんなこと気にしている場合じゃない。本当の「がんばる」は、インターネットやSNS上のどこにも転がっていない。すぐに止まってしまう各駅停車の中で、寒すぎる二月の強すぎる暖房の中で、ぽろんと転がり落ちるのだ。

ほんとうにたいせつなことは、ツイッターにもフェイスブックにもメールにも、どこにも書かない。ほんとうに訴えたいことは、そんなところで発信して返信をもらって、それで満足するようなことではない。だけど、そういうところで見せている顔と言うものは常に存在しているように感じるから、いつしか、現実の顔とのギャップが生まれていってしまう。ツイッターではそんなそぶり見せてなかったのに、なんて、勝手にそんなことを言われてしまうようになる。自分のアイコンだけが、元気な姿で、ずっとそこにあり続ける。(中略)俺たちは、人知れず決意していくようになる。なんでもないようなことを気軽に発信できるようになったからこそ、ほんとうにたいせつなことは、その中にどんどん埋もれて、隠れていく。(中略)日常的に○○のことを補完してくれるものがたくさん存在してしまうから、意図的に隠されていたような気持ちになってしまう。(中略)ほんとうのことが、埋もれていく。手軽に、気軽に伝えられることが増えた分、ほんとうに伝えたいことを、伝えられなくなっていく。

メールやツイッターフェイスブックが流行って、みんな、短い言葉で自己紹介をしたり、人と会話するようになったって。だからこそ、その中でどんな言葉が選ばれているかが大切な気がするって(中略)短く完結に自分を表現しなきゃいけなくなったんだったら、そこに選ばれなかった言葉のほうが、圧倒的に多いわけだろ(中略)だから、選ばれなかった言葉のほうがきっと、よっぽどその人のことを表してるんだと思う(中略)たった一四〇字が重なっただけで、○○とあいつを一緒に片付けようとするなよ(中略)ほんの少しの言葉の向こうにいる人間そのものを、想像してあげろよ、もっと

思ったことを残したいなら、ノートにでも書けばいいのに、それじゃ足りないんだよね。自分の名前じゃ、自分の文字じゃ、ダメなんだよね。自分じゃない誰かになれる場所がないと、もうどこにも立ってられないんだよね。

『何者』のもやもやした読後を理解するためには、社会学を重ねると少し分かりやすい気がする。手元にある、この本から関係のありそうな部分を抜き出してみる。

人生うまくいかなくても過剰にみじめにならず、自分がそこにいていいんだ、自分は生きていていいんだ、自分は他者に受け入れられる存在だ、と思えることが「尊厳」だった。(中略)「尊厳値」が低ければ、他者の前で思い通りにはふるまえない。能力が理由であれ、性格が理由であれ、信仰が理由であれ、「自分はバカにされるんじゃないか」「自分は許されない存在なんじゃないか」と思わざるを得ない(中略)自由であるためには「尊厳」が必要なんだ。

そして、「尊厳」は自分以外の他者に「承認」される経験を必要とし、他者から「承認」された経験があるからこそ、「尊厳」(失敗しても大丈夫だと思える気持ち)が得られる、という。
試行錯誤(自由にふるまう)→承認→尊厳→試行錯誤のループで、人は成長していく。試行錯誤は、勉強でも運動でも、何でもいいけれど、何かしらの挑戦と言い換えればいい。しかし、現代は承認を与えてくれるみんな(他者)があいまいになることで、安定した「承認」を得られず、安定した「尊厳」を得られず、ますます「みんな」があいまいになっていく、悪循環の中にいる。

すると、現実には3つのタイプが出てくる。1つ目が、他者に「承認」して欲しいあまり、周りの期待に反応しすぎるタイプ。他者に気に入られたくて、「いい子」を演じたり、周りに遠慮して意見を言えなかったりする。「AC(アダルトチルドレン)」と呼ばれるタイプだ。2つ目は、他者に「承認」して欲しいあまり、周りの期待と自分の能力の落差に直面して失敗するのがこわくなり、「試行錯誤」にふみ出せなくなるタイプ。「尊厳」に問題があるので、「自由」から見放されてしまうこのタイプは、一部「引きこもり」に当てはまる。3つ目が、他者から「承認」されない環境に適応してしまい、「承認? 何それ?」とばかりに、他者との交流と結合した「尊厳」を投げ出すタイプ。

『何者』では特に、「試行錯誤」と「承認」のアンバランスさに悩む2つ目のタイプが、歪な形でそのアンバランスさを解消し、どうにか「尊厳」を保とうとする過程をリアルに描いていた。
現実世界で満たされない「承認」をネット上の「承認」でどうにか補おうとし、周囲を内心「承認」しないことで、「尊厳」をどうにか保とうとする彼ら。ここまで書いて、この間TVの特集を見ながら、ツイッターフェイスブックニコニコ動画も「わたしを認めて欲しい!」気持ちの塊で出来ていると感じたのを思い出した。しかし、彼らは「賢い」がゆえに、もう一つメタな視点では、中途半端なネット上の「承認」では自分が満たされないことも、他者を貶めて「尊厳」を保つ虚しさも理解している。この、「賢いメタ視点」こそが、ネットに救いを求め、ネットに満たされない理由なのだと思う。朝井リョウさんはSNSに散見する「何者かになりたい!」気持ちの発露する過程や瞬間、「賢いメタ視点」を持つ不幸にも鋭く切り込むことで、「何者かになりたい」わたしたちの、切実な叫び、不安、悲哀を切り取っていた。それがとても心に残った。

わたしも「何者かになりたい」という気持ちはどこかで諦めきれずに持っているし、書きたいから書いてるこの文章だって「何者かになりたい」が目に見える形になった、とも言えるだろう。主人公の拓人なら“自分の平凡さから目を背け、誰かに認められたいというだけの自意識の表れであり、彼女がネットの片隅で文章を書くことに果たして意味はあるのだろうか”とか言うかもしれない。いや、分からないけど、こういう感じのキャラクター。笑

そんな読者や、登場人物に対して、他人を批評して眺め、悦に浸り、「尊厳」を必死で守ろうとしているだけでは、「何者か」になんて到底なれない、というメッセージがぶつけられる。何者でもない人が何者かになるためには、痛くたってダサくたって、自分に出来ることを泥まみれでやるんだよ、待ってるだけで何者かになんてなれないんだ、と訴える。グサッときた。そして、「何者にもなれないと薄々分かりながら、何者かになりたい」人たちが、それでももがこうとして生まれる痛み、もがくことすら出来ずに生まれる傷み、さらには、何者かになれると信じていたけれど叶わなかった空虚さが生々しく描かれる。

『何者』は徹頭徹尾「何者かになりたい」若者たちによる「自分探し」の物語だ。しかし、ここで描かれる「自分探し」は、最後までどこか閉塞的で開放感がなかった。それどころか、最後の最後で「自分探し」は放棄され、「自分探し」を行った結果も、現実での成功も描かれなかった。
ここでの「自分探し」は、無意識に「自分探し」をしている自分と、「自分探し」をしている自分を眺めて批評する他者と、「自分探し」をしているわたしを眺めて批評する他者を批評する自分、の入れ子細工のようなメタな構図によって語られる。「自分探し」の放棄は、同時にメタ視点の放棄に繋がる。その一方で、「何者かになりたい」が、メタ視点で批評される「自分探し」なんてぬるい理屈に収まるものではなく、切迫した、根源的な欲望であることも示される。

少し脱線するが、ネットに浸かれば浸かるほど、最もメタ視点を持って発信している人が正しい気がしてしまう。そして、メタであるほど正しい=メタでないほど価値がないような気がしてしまう。○○を知らない人が○○を語るな、とか、○○はどうせ○○なんだから戦略だよとか、まあ分かるんだけど、でも全部をそれに収束させてしまったらおしまいだよな、と思ったりもする。そのくせ、わたしもついついメタ視点で何かを考えようとする。メタにメタを重ねていくことは確かに面白いし、賢くなったような気持ちになれるし、それが真実を示すときもあるだろう。メタにこだわってしまうのは、その手法が肯定されやすく、手っ取り早く「賢く」なれて、正解に近づいたような気持ちになれるからだと思う。メタの階層を行き来するほど簡単な批評はないくせに、その方法が染み付いている自分が虚しい。そんな風にメタ視点を使って、自分を納得させて、世間を納得させようとして、わたしには何が残るんだろう。その答えの一つがラストにあった。

地の文を読んでいて思ったのは「賢いメタ視点」に耽溺しても何にもならないことを、主人公はちゃんと分かっていたんだろうということ。それまで必死で育ててきた「賢さ」を放り投げ、どこかで「馬鹿」にならなければいけないことも、これまで自分が嗤ってきたように、「賢い」人たちに嗤われながら、歩む覚悟を持たなければどこにも行けないことも、たぶん分かっていた。正しい、正しくないなんてどうでもよくて、自分が思う道、選んだ道を、どうにかして進まないといけないことも、何年批評するよりも、どれかを選び、一日行動するほうがよっぽど未来が開けていくことも分かっていた。それでも、嗤われることが怖かった。この気持ちが痛いほど分かった。だから主人公は、「賢さ」へのこだわりこそが「馬鹿」だと嗤われ、仲間を得て、初めて「賢さ」を捨てることを選べたのだろう。
嗤われることに怯えながら、誰かを嗤う、「賢い」人ばかりで溢れかえる“いま”はなんて息苦しいんだろう。「賢さ」で負った傷を慰め、「馬鹿」な自分を肯定しながら、一人でどうにか生きていこうとするわたしたちの、寂しく、苦しく、遠い道のりを思う。でも、この辛さを抱えることが、現代の「通過儀礼」となり始めていて、もう逃げてばかりではいられない。
暗いだけの道を歩むのは怖いから、いつか誰かに認められる日を夢を見る。嗤われるのが辛いから、同じように「馬鹿」になろうとし、同じように嗤われて来た周囲の友人や先輩と慰めあい、身を寄せ合う。彼らが「賢さ」の傷をえぐったとしても、その温もりがなければ生きていけない。これがわたしたちに唯一残された優しさなのである。

『何者』が象徴するように、「賢いメタ視点」で育った世代がそれに疑問を抱き、捨てようともがき始めることで、「賢いメタ視点」は少しずつ縮小していくだろう。それが進んで行く中で、よどんだ日常に風穴を開ける時が来るかもしれない。それにしても、これまで助けられてきたはずの「賢さ」が、わたしたちを新しい不幸に導いたことがなんだか悲しい。そして、いろんなものを捨てても「何者かになりたい」欲望だけは捨てられない、人の業。しかし、この欲望が人をどうにか立たせている。たぶん「何者かになりたい」欲望が潰え、身を寄せ合う人がいなくなったら、わたしはゆるやかに死に向かっていくのだと思う。

書きたいことが多すぎて、これだけ文字を費やしても上手くまとまらない。なので、最後に伝えたいのは、とにかく読んで欲しいということ。読み終えてもスッキリしないし、賛否いろいろあるだろうけど、そこがとっても魅力的。角度を変えたら全く違う小説になるし、読み方の幅も本当に広い。ミステリーとして読んだらやや無理があるとか、主人公が語りすぎとか、細かいことは抜きにして、23歳の朝井リョウさんの言葉は本当に響く。ハードカバーで買っても損はないし、何より文庫が出る数年後ではなく、“いま”読んで欲しいと思う。ただ、もしも、冒頭の、ツイッターのプロフィール画面の並びを見てもピンと来なければ、ピンと来る日まで読まなくて良いと思う。笑
特に、同世代と、SNSやブログ等、当たり前のようにネットを使い、使いこなしていると思っている人には間違いなく刺さる。中でも、わたしのように理屈をこねくりまわしている人は、致命傷になりかねないので読む時期に注意(笑)

すごく厄介で、不安で、それでも“いま”を生きていて、“これから”を生きていくこと、その意味を心から実感する。