小骨の欠片

まめかんの日常。

風化しないナンシー関

ナンシー関の文章を初めて読んだのは中学校一年生の時だった。自由になるお金なんてほとんど持ってなかったので、古本屋でたまたま出会った一冊の文庫本を繰り返し読んだ。大してテレビを見るわけでもなく、芸能人に興味もなかったくせに、テレビと芸能人を独特の角度から切り取ったナンシー関のコラム集はとても面白かった。これは今でも本当に不思議。そして最近、ナンシー関の切れ味が恋しくなって買ってみたのがこれ。

導入本なので残念ながら厚みの割りにナンシー関が薄い。これなら文庫本を全巻そろえればよかった!とは思ったけれど、当時のテレビ事情を知らないので確かに解説はありがたかった。
中学生の頃は言いたいことが良く分からないけどとにかく楽しく読んでいたのだが、今はアイドルのファンで、テレビも結構見るようになったため、コラムの内容が分かるようになってよりいっそう楽しかった。

目に留まったコラムを少し抜粋。

「ブーム」とは「社会現象」と呼ばれるようなものの常であるが、核(当事者というか、本当に「好き」だったり「支持」したりしている層)の大きさなど関係ないのである。その核の正味の大きさがわからなくなるほど、社会通念を自分の感情と思い込んでいる程度の「木村拓哉肯定層」がぶ厚く取り巻き、どんどん巨大になっていく人垣を「ブーム・社会現象」と呼ぶのではないだろうか。木村拓哉の「人垣」は確かにでかかった。(中略)皇太子の結婚パレードを思い出すなあ。人のるつぼの半蔵門、「今、通ったって」という噂だけが、遠い向こうから伝言ゲームみたいに伝わってきただけ。関係ないけど。(中略)中心近くの核にいる「ファン」は、飛び出た鼻毛まで見えているわけである。でも、鼻毛が出ていることは「外部=人垣の外側」には言わない。絶対に口をつぐむ。それが、ファン。


木村拓哉不人気ブーム到来の可能性を見た」『何だかんだと』2000年

コンサートのライブビデオなどで、ステージ上のアイドルとそのアイドルを前にして熱狂するファンを見るとき、いつもある図式が思い浮かぶ。それは、アイドルを中心にしてファンの人垣がそれを取り囲み、ファン以外の私たちはそのさらに外側で人垣のすき間からアイドルを見ているという図式だ。私たちは、叫んだり飛び跳ねたり放心状態になっていたりするファン越しに、というかファン込みで、アイドルを見るのである。ファンの人垣は、一種のフィルターの役割を果たす。ファン以外には何の価値もないそのアイドルの一挙手一投足に、少なくとも価値があるだろうことを認識させる効果ぐらいはある。


「フィルターの外れた南野陽子は…」『何様のつもり』1992年

「不安」な感じこそ、「美少女」に欠くことのできないスパイスだと思う。(中略)ちょっと乱暴な例だが、たとば最近流行の死体写真集。嫌だけど、どうしようもなく見てみたいという気持ちがある。単なる「コワいもの見たさ」よりも、もうひとつ複雑な気持ちだ。そして実際に見たとき、その死体写真から受ける「不安」と、もうひとつ、こういうものを見たがる自分の気持ちに対する「不安」を同時に感じるだろう。


「本物の美少女は見るものに「不安」を抱かせる」『何の因果で』1994年

世の中にはいろいろな物事があり、そしてそれが複数の人間の目に触れるものであればそこには必ず「評判」というものが発生する。たとえば自分しか見ない日記には「評判」は発生しないとしても、昨日の夕飯のおかずについてはたとえ3人家族であったとしてもその家庭内において「評判」は発生するのである。(中略)今の世の中、実態を知らなくても色んなところで見聞きした「評判」で、その物事をわかったつもりになっていることの何と多いことか。(中略)そこで必要になるのが、『評判』という機能を処理する能力である。


「メディアジャンキー『TVブックメーカー』」『何を根拠に』1991年

インターネットには、いろんな特性や効用があり、その中のひとつに「隔離された小世界をのぞき見る楽しみ」がある。(中略)たとえば、助走をして蒸気機関車の写真を撮りに行くことがたまらなく好きであるという人が日本全国で40人いたとしよう。(中略)インターネットがある現在、この40人は集うことが出来るのである。いや、実際に顔を合わせることはもしかしたらないかもしれない。でも、ネット上の空間で「集団」となることができる。そうやってできあがったネット上の無数の「小世界」を、私たちものぞき見ることができるのである。


高知東生高島礼子夫妻の公式サイト。その「絆」強し」『何だかんだと』2001年

世の中はどんどんぶっちゃけてきているわけだ。「本音・建てまえ」という言葉が流行したのはもう何年も前のことであるが、本音→おもしろい、建てまえ→つまらない、という考えは完全に定着した概念になっている。


「更に深く進化した高知東生エステCMの関係」『何がどうして』1999年

読めば読むほど、2013年の彼女のコラムが読んでみたい。
こうやって眺めると、最も寿命が短いと思われるテレビ評・芸能人評ですら風化していない。抜粋した中には20年以上前に書かれたものが含まれているにも関わらず、である。20年近くテレビや芸能人の在り方が変わっていないのかもしれないが、それでも20年に耐えうる「何か」が彼女のコラムには存在するように思う。

もちろん、彼女のコラムのすべてが2013年とぴったり重なるわけではない。例えば、芸能人と人垣の外部の関係はやや変わってきているだろう。今の芸能人は、ファンだけでなく、外部にも鼻毛を見せることを求められているように思う。ナンシー関が指摘するように、ぶっちゃける=おもしろい、の風潮がさらに加速しているからなのかもしれない。そのために、芸能人は鼻毛を常に美しく整えるか、諦めて鼻毛をさらすか、どちらかを選択するのである。前者には、鼻毛が見つかったときのリスクとぶっちゃけていない、と批判されるリスクがある。よって、多くの芸能人は後者を選択する。そして、ファンも外部の批判に負けじと、鼻毛まで愛している!むしろ鼻毛が彼・彼女の魅力なのだ!と声高に叫ぶ羽目になる。たまに前者を選択し、そつなくこなす芸能人がいると、ファンはもともと鼻毛が出ていたことは分かっているが鼻毛を美しく整えている努力がすばらしいのだ!と叫ぶことになる。かといって、ファンが鼻毛を見なかったことにしたり、外部に反論すると、今度は外部が鼻毛が出ている部分だけを切り取って笑いの種にして、おせっかいにもファンにそれを無理やり見せようとする。なかなか面倒な関係である。

一方で、アイドルと人垣の話はあまり変わらず、身につまされる思いだ。今、外部にとって最も身近な人垣は、インターネットの中に存在するアイドルファンが集まる無数の小世界によって作られているように思う。真ん中にいるアイドルを見て、熱狂していると、せいぜい前後左右のファンの動向くらいしか気にならない。しかし、それをさらに外から眺めている外部は確かに存在する。わたしの好き勝手な感想や挙動一つで何かを左右するとは思わないが、人垣の端に自分が存在していること、よくも悪くもわたし自身が無数のファンの一人として外部に観察されているということは忘れないでおこう。

ここまで書いてみて、ナンシー関のコラムが風化しないのは、内容の的確さだけでなく、ちりばめられた針の多さ、引っかかりの多さにあるのかも、と思い始めた。今の自分の興味を発見するのに、このコラムは本当にぴったりだ。
彼女のコラムは読み終えて、納得出来る、反対である、と簡単に通り過ぎてしまうのではなく、引っかかったフレーズを見つけそこから少し思考を広げる体験が出来る。上手く言い表せないけど、コラム一つひとつがブログ記事を書く材料になる感じ。
あと、多分、同じコラムを読んでも、今日と一年後では違う針に引っかかる。それがついつい読み返してしまう理由なのかも。前提として、ナンシー関の文章やたとえ話の選び方が好きっていうのももちろんあるんだけれども。
今度は文庫本とムックを読んでみよう。特にムックは、ナンシー関評を、誰がどうやって書いてるのか気になる。