小骨の欠片

まめかんの日常。

非選抜アイドル感想

AKB48ドキュメンタリーの影響でAKBグループをもうちょっと見ておかないと!!と思うようになり、さっそく購入したのがこれ。すごく面白かった。

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AKB48グループの面白さの要素に“多様性”がある。中でも、ファンが推しを選び、好きな視点を決める面白さと、それの延長で、自分の目線から切り取って語る面白さは群を抜いて多様性のある楽しみ方だと感じている。『非選抜アイドル』はまさしく、その楽しみを支えているコンテンツだと言えるだろう。また、“リアル”として提示される、ドキュメンタリーと、本書を読むことで、AKB48の深さと闇がさらに増したような気持ちになるのも、このグループの興味深い点だ。摂取すれば摂取するほど、語れば語るほど輪郭がなくなっていくAKB48は、本当に不思議である。

執筆者は第三回選抜総選挙の日、王座奪還のスポットライトを浴びる前田敦子の横に座っていた一人のアイドル、仲谷明香。彼女は前田敦子のクラスメイトであり、ゆきりんまゆゆと同じ三期生でありながら、その時まで一度も総選挙の場で名前を呼ばれたことはなかった。

“非選抜アイドル”は総選挙でスポットライトがあたることなく、しかしAKB48を支え続ける一人のアイドルが見たAKB48とはどんなものなのか。それが語られている。

彼女の夢は声優だ。幼い頃にピカチューの物まねを褒められたことと、アニメに勇気付けられた記憶が忘れられなくて、テレビの中のキャラクターになり、誰かを元気付けたいと思うようになった。夢を叶えるためには早く訓練をつみたい。そう思った彼女は家族にお願いして声優になるためのスクールにも通い始めた。しかし、彼女の家は母子家庭で、とても専門学校に通い続けるお金はなく、半年でもうお金がないと告げられた。彼女は色んなものを諦めることに慣れていたし、慣れなければ活きていくことはできなかった。そんな彼女が通う中学はそれなりに荒れていて、ほとんど授業に来ない子も珍しくなく、じつは彼女自身もその一人だった。

そんなある日、彼女に転機が訪れる。同じクラスの地味で目立たない女の子がアイドルグループに入ったことを知ったのだ。その女の子こそが前田敦子。そして彼女はAKB48の存在に興味を持ち始め、AKB48がアイドルを目指す場所ではないこと、レッスン料がただなうえにお給料がもらえることを魅力に思い、オーディションに応募することとなった。彼女にとって、AKBは48は夢に続く最後の道だった――。

 

仲谷さんの面白いところは「“人気を得ること”を諦める」アイドルとしてあるまじき決意を固めたところにある。わたしはアイドルの難しさ、厳しさの理由を“人気”という実態のないものが判断基準になり、重要視される点にあると考えている。そのわけの分からないものに振り回される彼女たちに感じる“悲哀”は、前回少し書いたように思う。

仲谷さんは性格や資質上、狙っても“人気”を得られる自分ではないとごくごく冷静に判断を下し、“人気が無くてもAKB組織に欠かせない人物になる”ことを決意する。具体的には、日々行われる劇場公演に全力を注ぎ、歌・ダンス・トークの3つを鍛え、トラブルが起きたときや、メディア収録でいないメンバーの代役を担当する「便利屋」や、公演の盛りあげに必要不可欠な人員になることにしたのだ。

ファン(というかお茶の間といってもいいかもしれない)の印象と評価で語られがちなアイドルのポジションであるが、AKB運営内部からの評価が高ければ居場所を見つけることが出来ると彼女は言う。さらに、劇場に通い、DVDを買い、動画サイトで映像を見るような濃いファンはメディア露出が少なくても仲谷さんの実力や器用さを発見、賞賛し、劇場に欠かせない人材だと彼女の努力を評価する。結果的に彼女の目指した「便利屋」稼業が彼女の“人気”獲得や居場所に繋がっている。

AKB48 においても、総選挙以外の評価軸は存在する。それは確かに、アイドルにとっても、ファンにとっても一つの希望なのではないか。この『非選抜アイドル』には、AKB48グループに存在する多くの非選抜アイドルたちと、それを応援するファン達の夢と希望が詰まっているように思う。もちろん、仲谷さんと同じような道を進みながら認めてもらえずに零れ落ちた少女もたくさんいるだろうし、夢へのステップアップを掲げながらもその機能がきちんと果たされていないことも否めず、運営側の問題点は多い。それでも、本書に書かれている内容は間違いなく一つの希望である。

AKBドキュメンタリーに詰めこまれたアイドル業の悲しさ、アイドルビジネスの醜さ、そういったものが仲谷明香さんの言葉で少し救われたような気持ちになる。「仕事なんだから大変なことは誰だってある」「夢を叶えられる場所はここしかない」「AKB48にいる幸運」彼女は現実的な思考を持ち、アイドルやAKBグループとの向き合い方も非常に冷静である。また、自分の素質と向き合い、夢を目指す強さを持った方でもある。人生に大逆転を起こす可能性がある場所は、AKB48しかなかったと仲谷さんは考えている。だから、彼女はここにいるのだろう。

アイドルを見ていると、どうしても彼女達に運命に翻弄されるか弱い少女の姿を見てしまう。どこか切ない物語を当てはめてしまう。その偏った目線を仲谷さんの文章はやんわりと修正してくれる。「AKB48はわたしが選んだ道」。それは確かにその通りで、彼女たちの覚悟や決断を、知らないうちに軽んじてしまっていた自分にも気づかされた。

あと、面白かったのは、考える暇もないくらい忙しいから目の前のことをひたすら頑張れる&アイドルのモチベーションは舞台に立つと勝手に湧いてくる、と語っていた点。忙しいから続けられている、という考えは中にいないと出てこない気がする。また、練習はすごく辛くても、本番は無理が無理だと分からないくらい高揚し、自然とアイドルとして高みに行きたいという気持ちになるという。アイドルグループに所属するアイドルの夢がアイドルじゃない、という不思議な構図がなんで成立するんだろう、と思っていたら仲谷さん自身も上手く説明できないらしい。しかし、読みながら、仲谷さんの人前で表現することが心底好き!な気持ちは、彼女のアイドル生活の軸になっていたような気がするし、夢へのステップアップとはいっても、夢の実現とアイドルに共通する素質がないとAKBでの活動が難しいことは良く分かった。夢を明確に持つと共に、アイドルに魅了され、アイドルとして活躍できそうな女の子を選んでいるわけだ。当たり前だけど。

AKB48」で適当にくくってしまいがちであるが、その中の少女にはそれぞれの人生があり、それぞれの選択があり、少女達に全員に異なった物語がある。

今回の新書は、テレビでは伝えないような物語の一つを広く届けてくれた。新書という形態だからか、ところどころまとめが入るなど、思い出したようにビジネスの啓蒙書のようになるのがむしろいただけないが、それ以外はシンプルな語り口で読みやすい。コンセプト的にも、たぶん仲谷さんにあまり興味がないサラリーマンの方等も読んでいるだろう。そういう人であっても、「非選抜」の彼女の物語に共感できる人は多いだろうし、きっと何かしらの気付きをもらえると思う。また、個人的にはAKBドキュメンタリーで大幅にずらされた視点を、引き戻してくれる役割もあったので、そういう読み方をするのもありかもしれない。秋元康が帯を書いた、という点も含めて「AKB48」を知りたい・語りたい人の必読書といえるのではないか。

とまぁ、いろいろ書いてきたが、とにかく、仲谷明香さんの物語における「AKB48」、仲谷さんの見る「AKB48」と「仲谷明香」はとても面白い。彼女の人生がこの一冊に詰まっているのだから、当たり前である。食わず嫌いをせずに読んでみて欲しいと思うし、そのときに感じたことを大切にして欲しいような、そんな本だと思った。

AKB48ドキュメンタリー感想

新年早々、昨年からずっと気になっていた「DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら夢を見る」を鑑賞。
先日たまたま見つけた宝塚の舞台裏も、ジャニーズの舞台も、このAKB48ドキュメンタリーも“Show must go on”が一つのキーワードになっていて、それも非常に興味深かった。
AKB48の見せる“リアル”なショーの裏側を見ながら、前者二つの“見せない美学”に救われてきたことに改めて気付かされる。
つまり、簡単に言うと、なかなかきつい、との噂は聞いていたが正直予想をはるかに超えた映像だったのだ。
事前にお伝えしておくと、AKBに関してはいわゆる茶の間で、メディア選抜は顔・名前・キャラクターくらいは一通り知っているけども、女性アイドルには全く詳しくない。
 
観終わってすぐのツイートを編集抜粋。
“今更ですが、『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』を見て号泣。 泣き所は設定されているんだけど、そこ以外でも泣けて仕方なかった。こんなにわけもなく涙がこぼれる映像は久しぶりでした。”
“たぶん、わたしがアイドルを好きだからなんだと思う。本当にね、“ムゴい”映像だった。 総選挙の裏側にある慟哭、酸欠と熱中症で倒れる女の子たち、過呼吸になりながらステージに上がらなければならないセンター、男性とのプリクラ流出騒動で謹慎になった昇格研究生。そこを編集してDocumentaryとして映画にする運営の思惑に思いを馳せずにはいられない。”
“映像自体も“ムゴい”けど、それよりも映像編集(≒運営&秋元康)側の意図も“ムゴい”し、それを出させてお金にさせてしまうファンの存在も“ムゴい”ものなのだ、と思ってしまった。
ただ、“ムゴい”ながらも彼女達をすり減らしながら撮った映像には、確かに力があって。露悪趣味なんだけど、露悪趣味で片付けられるようなものでもなく。そういうのがごっちゃになって、わけもわからず泣けてくる。”
“分かりやすく泣けたところだと西武ドーム公演の初日と二日目。初日は「AKB史上最低のコンサート」。それを立て直そうと必死でリハを行う二日目。あっちゃんは重圧からかリハからずっと過呼吸。でも、総選挙で返り咲き、センターをとったフライングゲットを歌うときにはどうしても出ていかなければいけなくて。ステージ裏では数秒前まで行きも絶え絶えだったあっちゃんは、過呼吸のまま、必死で挨拶をする。それをフォローする他のメンバーと、離れていたのにすっと隣に立ちあっちゃんに呼吸をさせ、お辞儀をさせるたかみな。でも、イントロが流れた瞬間、立つのも必死だったあっちゃんはやや引きつってはいるものの、変わらぬ笑顔で踊り始める。”
“さらにアンコール。あっちゃんが過呼吸で動けず、メンバーも過呼吸熱中症で倒れる舞台裏。ここまでコンサートを支えてきた大島優子も、過呼吸気味で「なんにもわからない」と半ばパニック。そして、もう一人の屋台骨たかみなも視界が朦朧としていて、明らかにおかしい。それでもたかみなは責任と気力だけで「MCしゃべれますよ」と言って出ていく。そのあとすぐ、スタッフがすごく冷静に「たかみなそろそろ倒れますよ」って言っていて。その冷静さに寒気がした。”
”同じく満身創痍の大島優子と2人で、あっちゃん不在がマイナスにならないように、かばって出ていって走って声張ってMCをまわしていて。で、そんな中でも、最後の最後、裏でスタッフに「出なくていい」と反対されながらも、あっちゃんがどうにかステージに戻ってくる。そして終わったとたん、たかみなは本当に倒れて、スタッフは「意識はあるので大丈夫です」と言う。”
”なんかね、こういうところに“ムゴい”なってすごく思ってしまった。彼女たちの責任感や夢に胡坐をかいてる(ように見える)運営も、ファンの期待と歓声すらアイドルを傷つけていることも、それを見せることも。この映像がすべてでもないけど、本当に罪深い映像だなと思った。”
“アイドルは運営とファンの欲望に動かされるマリオネットって、こういう映像を“ドキュメンタリー”とした秋元康は本当に罪深いよ。ただ、映画自体は AKBに興味がない人ほど、映像として楽しめるんじゃないかなと思いました。まさか、アイドルのドキュメンタリーがここまでグロテスクな映画だとは思わなかったし、前作より圧倒的に“見られる”映像。”
“3時に語ることでもなかったけど、見るの迷ってたら見る価値があると思う。ただ、これを見るとAKBメンバーは好きでも、AKB陣営は嫌いになる。歌番組で笑顔を振りまく姿を見てるほうがよっぽど幸せで楽しいし、気軽にファンになりたいと思うな。”

これをきっかけに女性アイドルやAKBって何なんだろう?わたしは彼女たちをどう見てるんだろう?ってことをぼんやり考えるようになった。
AKBのパフォーマンスはあんまりツボに入らないけど、メンバーはいい子たちだなぁと思うし、可愛い!って思うときもあるし、この子好きだなぁと思うときもある。もともときらっきらしてる女の子は大好きだ。
このドキュメンタリーの主軸の一つ、2011年の選抜総選挙におけるあっちゃんの名演説。「私のことが嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください!!」に習うのであれば、「あっちゃんのことは好きだけど、AKBのことは好きにならないんだよな」というのが、わたしの正直な気持ちだった。
AKBが売れて、アイドルの主流ともてはやされ、メンバーも好きなんだけど、どこか拭えない拒否反応は何なのだろう。
今回のドキュメンタリーは、AKBが売りにしている「ガチ」や「リアル」のぎりぎりまで踏み込んだ映像だと感じていた。
だとするならば、AKBにいる多感な少女たちを「ファンと運営が追い詰めるから輝き」その輝きを「ファンと運営がくいものにしている」ことがAKBの最もリアルな形だと言うしかない。
もちろん、他のアイドルグループにそういう面がないとは言わない。これはアイドルに共通してる構造だし、みんながぼんやり感じてた裏側だと思うから。
ただ、それを“エンターテイメント”として差し出してくる運営を積極的に後押ししたいとは思わない。これからもついついお金を落とすだろうし、野次馬にはなるだろうけど、ファンになるほどの覚悟はないなぁと改めて思ってしまった。
たぶん、わたしのAKBに対する拒否反応は、どうしても“少女達が傷つけられながらも、最も輝いている瞬間を味わい楽しんでしまう”自分に対する拒否反応だったんだろうと思う。
「ガチ」や「リアル」はたしかに面白い。人間の極限の状況、彼女達の貴重な時間と感情を費やして生まれるものだから。そして、たしかに「ガチ」や「リアル」はアイドルには欠かせない要素だと思う。ただ、それは、あくまでも付加的に語られるものであって欲しかった。そう思う。
そして、秋元康のアイドルの人生こそがエンターテイメント、という考えはとんでもなく的を射ている。
途中で大島優子前田敦子の共通の夢として、“女優”と“一緒の舞台に立つ”ということが語られていた。これも、改めて考えると衝撃的。総選挙の裏側で慟哭し、血反吐を吐くような思いでセンター争いをしていた2人の夢は、“アイドルの頂点”じゃなくて“女優”。
女優をやりたい人に、アイドルとしてのその人を求めるのは歪な構造じゃないのだろうか(もちろん、それがプラスな部分もちゃんとある)。だから、アイドルに憧れ、アイドルになりたかった指原が4位になったのはAKBとAKBファンにとって、すごく大きな意味を持っていたし、薄暗い空気をとっぱらい、さわやかな風が吹くAKB次世代の象徴になりえたんじゃないかと思った。アイドルの夢を持つ女の子がアイドルとして輝く瞬間は、とってもまぶしいものだ。
そしてもう一つ。アイドル業が全部楽しいなんて思わないけど、彼女たちは自らの存在意義を被災地ではなく西武ドームに見つけられないの?と思ってしまった。意図的な編集かな、とは思うけども、もしも、もしもそうだとしたら、それはものすごく悲しい。
だから「コンサートの演出をしたい」と語る宮澤佐江ちゃんに少し救われた。
 
女性アイドルの儚さと悲哀、Documentaryに決して描かれないことで浮き彫りにされるAKB運営の醜さを“リアル”だというAKB48AKB48は国民的アイドルと呼ばれながら、とんでもなく異端のアイドルだ。
そして、この映像を“リアル”“ガチ”と示した秋元康は、果たしてその罪深さを背負う覚悟を持っているのだろうか。
少なくとも、これ以上悲しいアイドルドキュメンタリーが撮られないことを祈る。どんな少女であっても、アイドルの物語は彼女たちの青春に見合った、誰から見ても美しい何かで彩られて欲しい。切実なまでのこの気持ちは、彼女たちを消費した自分をごまかすための欺瞞なのかもしれないが、それでも願わずにはいられない。
 
次回は、この感想をひっくり返す希望に満ちた一冊の本と、その感想について。
そして、矛盾するようだが、わたしはアイドルに興味があるならば、この映画をぜひ見ていただきたいと思っているし、非常におすすめ。
ともかく、メンバーにどんどん情がわく。中でも、あっちゃん&大島優子&たかみなの3人はさすが!の一言。あっちゃんのセンターとしての孤独、大島優子の現状把握と客観性、たかみなのグループ全員、個人個人を見る目配りには圧倒される。残り2人が卒業する日が想像できないくらい、2人に依存しているグループだなぁと思った。
あとは、ゆきりんがとても良かった。チームリーダーを務めた経験が活きたのか、人を育てるのに向いている子だと思うし、今後さらにAKB48の核になっていきそうで先が楽しみ。
運営とAKBの仕組みには言いようのない悲しさを感じた私でも、メンバー個々の好感度はちゃんとあがるのでそこはご安心を。笑
また、被災地支援の映像で映りこむ沢山の笑顔と、彼女たちの笑顔はとっても素敵だった。それだけでも、色んな人に見て欲しいと思う。

ロックかポップか

先日、久しぶりに「音楽と人」を手に取った。理由は簡単。表紙と巻頭インタビューがゆるーくファンを続けている秦基博さんだったからだ。

歌が上手すぎるからかえって伝えたいことが伝わらない苦悩、歌声に頼らないためにメロディーと厳しく向き合わなければいけないなど、秦さん特有の切り口が面白い。そして、読み進める中で気になるフレーズが。

“たとえば自分のために歌う歌をロック、誰かのために歌う歌をポップというならば”

これは秦さんのアルバムを聴いたライターさんの言葉の一部。たとえば、とライターさん自身が仮定しているように、わたしもロックやポップがこれで言い表せるとは思わない。そもそも、音楽のジャンルはロックとポップにとどまらないから、分け方としてはいささか乱暴かもしれない。

ただ、これを読んで“ポップ”な音楽の先には必ず聴き手がいて、聴き手の共感や反応を含めて“ポップ”なんじゃないか、そういうごくごくシンプルな感想がストンと腹に落ちた。聴き手も大衆もよく分からないこの時代。改めて聴き手を相手にする“ポップ”って面白いなぁと思った。

5~6年前、軽音部でギターを弾いていた頃、ポップ的なものはどこかダサいと思っていて、ロック的なものはかっこいいと思っていた。ポップを面白いと感じる日がやってくるとはまるで思わなかった。しかし、かっこいい/ダサい、それ自体がわたしに合っているのか?ということを問い直す日がやって来る。

高校3年生の終わりにアイドルにハマった時だ。それまでどこかで馬鹿にしていたアイドルソングを聴くようになり、そのままポップにも手を出すようになった。

変な話だけれど、アイドルを肯定的に見始めると、エンタメ全般にかかっていた謎の偏見やフィルターがきれいに剥がれる。色眼鏡を捨てて聞き始めたらアイドルソングもポップもすごく好きだった。というか、もともと王道が大好きなのに音楽だけ違うはずがなかった。驚くほどあっという間に、売れている音楽に転がっていった。

最近はアイドルソング・ポップ・ロック全部雑多に聴くし、たまーに興味本位で新しいバンドに手を出す。しかし、高校生のときに必死で次に来るバンドを探していた熱量はどこかに消えた。過去のわたしを捨ててしまったようで、それが少し寂しいときもある。

音楽に限らず、誰にでも理解できるもの、大衆が受け入れてるものを好きな自分=ダサい、の感覚は今でもどこかに隠れている。裏返すと、“わたしだけが分かる○○”は、平凡だと自覚しているからこそとても甘美なフレーズだし、気付かないうちに滲み出ているんだろう。

それでも今は、合わないものは合わない。面白いものは面白い。嫌いなものは嫌い。好きなものは好き。とわたしの中は結構シンプルになった。ダサいとかかっこいいよりも、合わないとか面白いで日々を過ごす方が性に合ってたし、それで十分。タイトルに戻ると、“ロックかポップか”じゃなくて“ロックもポップも”が理想だし、ジャンルにこだわらないでいたいなぁとはぼんやり思う。

あえて選ぶならば、今はポップを選ぶかな。最初に触れた“ポップ”のあり方がそれほどずれていないと仮定したうえでだけど。ナタリーいきものがかりインタビュー

このインタビューを読んでも感じるけども、“ポップ”を作る過程を面白いと思うし、今、“大衆に支持されている”ってこと自体がすごく興味深い。

我ながらなんとも他愛ない感想。

とはいえ、“売れている”“分かりやすい”ものに積極的に触れるようになってから数年経ち、熱を込めながら冷静に、じっくり眺められるようになってようやくこんな感想を持つようになったのもまた事実。

この感想を単体で見たら、たぶんどうでもいいものだと思う。だけど、こうやって気ままに触れるすべてから、好きなもの、嫌いなもの、好きの中の嫌い、嫌いの中の好き、よくわからないけど引っかかるものを言い続けて理由を考えるうちに、見えてくるものがあるんじゃないかなと思っている。統計データみたいに。

そんなわけで、ここまで散々“ポップ”なものに興味がある!と語ってきたけれど、このブログはある種“ロック”に綴っていこうと思う。“ポップ”なものは、もう一つのブログで書けているような気がするし、そちらに全部注ぐつもり。

だからこちらは、どうにも気になるものの断片と自分のための言葉で埋めていこう。気付いたら引っかかっていて気になって仕方ない、魚の小骨みたいな小さな欠片で。